「……………………」
「……………………」

漆黒の森、下弦の月が照らす其れ。
―――――静かに、柄に手をかけた。





"たとえ 鬼 とて 幸せ を"





「…鬼の子か?」
「…………………………」

刀に手をかけたまま、問う。
鬼の―――その角と赤い瞳さえなければ、まだ年端もいかぬ可愛らしい少女でしかない子供―――は俺の声に応じ、一瞥した。
だがそれも一瞬。すぐにまた彼方に目を遣り、手にした巻き寿司を頬張る。

「……………」

成る程、流石は鬼の子。肝が据わっている。
こうして殺気を放っているのにも関わらず、まったく動じない。
―――――この黒い森に潜む獣たちは、とうに怯えているほどの殺気だというのに。

「………ふ」

柄から手を離す。
同時に、身に纏っていた敵意、殺気の類も霧散する。

「……………」

それでも、鬼の子は黙々と寿司を頬張っている。
無言のまま彼方を見遣って、まるで儀式の最中の如く、静謐。
…俺もそれに倣い、しばらくの間、この不思議な光景を傍観していた。


◇  ◇  ◇


「―――――ヘンな人」

やがて鬼の子は巻き寿司を食べ終えるとと同時に、こちらを見て静かにそう言った。

「………変な人、だと?」

言葉を発したことにさして驚きはしなかったが、その言葉には些か合点がいかなかった。
俺にそう言うのならば、自分はどうなのだ。
そう突き返してやると、鬼の子の赤目が僅かに鋭さを増す。

「あなた、侍でしょ?それなのにどうしてボクを殺さないの?」

それは、どこか怒りを孕んだ語気だった。
僅かに空気が冷える。それはこの鬼が放つ、殺気故の肌寒さ。

「いかにも俺は侍ではある。が、全ての侍が殺生を好むとは限らぬよ。
 ………俺からも聞こう。そなたは俺に殺してほしいとでも言うのか?」

再び刀の柄に手をかけ聞き返すと、鬼の子は頭を振った。

「殺されたいなんて思うもんか。
 …ボクが言いたいのはね。ボクを見て斬りかからないなんてのは、ボクに対する侮辱だってコトだよ」
「侮辱…?」
「そう。だってボクは鬼だもの。
 ただの人間なら怯えて逃げるか腰を抜かしてしまうかのどっちか。
 侍なら殺し合いを挑んでくるかしなきゃ―――――鬼に対して、失礼じゃないの?」

真剣な表情で、鬼の子は語った。

―――――く。

「ふふ、ははははっ!!」
「え、な、なんで笑うの?」
「………どう贔屓目に見ても、そなたは鬼らしく見えぬのでな。
 その角と赤い目…あとは格好さえ正せば、そうそうお目にかかれぬ可憐な少女にしか見えんというのに」

それなのに、この子は自らを鬼として恐れろと言う。侍ならば斬りかかってこいと言う。
―――――それはまるで、大人びようと背伸びしている生意気盛りの子供の様。
それが可笑しくて、声を殺すことも出来ずにただ笑ってしまう。

「……………あ、あなた…本当に、ヘンな人だ」

赤い目を白黒させて、少女はぽつりと零す。
その頬が僅かに紅潮しているように見え、俺は笑うのを止めた。

「すまぬ、怒ったか」
「あ………う、ううん。そうじゃなくて…」

そこで言葉を濁し、少女は彼方に目を遣る。
―――――そういえば、先程の………。

「聞いてよいか?」
「え、なぁに?」
「先程、そなたがしていたこと………あれはよもや、節分の?」
「うん、そうだよ。恵方巻きって言うんだよね?アレ」

………自らを恐れよと言ったはずの鬼の子は、すっかり鬼らしさを取り払ったように思えた。
一点の邪気も無い語気からは、どこか楽しんでいる様すら感じさせる。

「そうだ。
 節分の日に邪を追い出し福を願った後、その年の吉方を向き無言で巻き寿司を食べることで、より一層の福を願う行事だな」
「あぁ、よかった。間違ってたらどうしようかと思った…」

ほぅと安堵の息を漏らす少女に、俺は素朴な疑問をぶつける。

「だが、どうしてそなたがそのようなことを?そなたは鬼なのだろう?」
「う………」

ぎくっ、とまるで悪戯が見つかった子供のような反応。
だが―――――どこか遠くを見るようにして、鬼の子は静かに云った。



「たとえ鬼でも、"幸せ"を願うくらいならいいかなって」
「――――――――――」
「…どういうモノが"幸せ"なのか、ボクにはわかんないけど」

それでもいいから、ボクは"幸せ"になりたい。
―――そう云って笑うこの少女に、俺は、不思議な想いを抱いた。



「……………」

鬼とは残酷である。
幼い頃からずっとそう教えられ、育ってきた。
山で人が居なくなれば、それは鬼や天狗の仕業だと決め付けられ。
侍ならば、物の怪―――鬼をも討つ覚悟を持てと、師に教わった。

「……………………」

それが、どうだ。
目の前のこの鬼の、どこに残酷という色がある?

その赤い瞳か?/いや、この双眸は純粋さを映している。
その二つ角か?/いや、この角はただの飾りにしか見えぬ。

恐れるべき鬼ならば、この命と引き換えに討ち果たす覚悟を持っている。
だが―――――無垢なる鬼を討つ覚悟は、生憎と持ち合わせていない。

もし、この無垢を討てと云うのならば。
―――それこそが―――残酷と、云えるのではないか。



「…鬼の子よ、そなたに名はあるか?」
「ボク?みんなからは"姫"って呼ばれてるよ」
「姫………もしやそなた、高貴な鬼の血を引いているのか?」
「そうみたいだよ。父上が取りまとめてるからね、みんなを」

これがその証拠だよと、姫は銀の首飾りと腰の小さな髑髏を指差す。
成る程。気になってはいたが、ただの装飾という訳ではないらしい。
………というより、鬼にも血筋という概念があったことに俺は少々驚いた。


「―――姫。ひとつ聞くが、そなたは先程の恵方巻きをどうやって手に入れた?」

何気なく尋ねると、姫はうっと言葉を詰まらせ、言いにくそうに俯いてしまった。
……………この、悪戯小僧を問い詰めるのに似通った感覚………。

「………さては、盗みを働いたか?」
「……………だ、だって…売ってくれるハズないでしょ?ボク、こんなだもん」
「だからと言って盗みを働いてよい理由にはならん。まったく…」

思わず嘆息すると、申し訳なさそうに俯いていた姫が急に顔を上げた。

「ボ、ボクは鬼だもん。人を律する法なんて、ボクらには関係ないもんねー」

へへんとサラシを巻いただけの薄い胸を突き出し、どこか誇らしげに姫は言う。
…それに今度は軽蔑の眼差しも向けつつ、再び嘆息する。

「………そなた、先程罪の意識を感じていたのではないのか?」
「………あぅ…」
「謝りに行けとは言わん。我ながら甘いとは思うが、お上に突き出したところでまともな沙汰があるとも思えんからな」

鬼ならば、それだけで即刻火炙りにでも処せられるだろう。
たとえ罪人でなくとも―――いや、人間からしてみれば、鬼とはその存在自体が許せぬ罪業なのだから。

「…………………………じゃあ、ボクはどうすればいいの?」
「簡単だ。こっそり盗みに行けたのなら、こっそり償いをすればいい。
 どう償うかはそなた次第だが………己が己を許せるよう、しっかりと償うことだ」

幼子を諭すように優しくかつ厳しい口調で語ると、姫は黙って頷いた。
ふ………この様子なら明日にでも、被害にあった店に何かしらの償いがなされていることだろう。

「よし………そうだな。姫、これをやろう」
「ふぇ?」

懐にしまってあった小包を取り出し、姫に手渡す。
姫は疑念と喜びが混じり合ったような複雑な気色を浮かべつつ、その小包を派手に破って開封する。

「え―――これ、恵方巻きだよね?」
「そうだ」
「………あの、ボクがさっき食べてたの見たでしょ?なのに、どうして?」

至極尤もな疑問を、至極尤もな答えで返す。

「盗んだものを以って福を願ったところで、それが叶うと思うか?」
「………そ、それは…」
「だからそれをそなたにくれてやる。俺からの贈り物だ、それならば福を願っても良いであろう」

あぁ、と感心したような声を漏らす姫。
それがなんとも可愛らしく、俺はつい微笑んでしまった。

「…あれ?でも、そうすると………あなたの分は?」
「気にするな。俺がそれを買ったのはただの気紛れに過ぎん」

だから遠慮しなくとも良い。
そう言うと、姫はまた俯いてしまった。
言いにくそうに口籠もっているが、それじゃああなたに悪いよ、と小声で呟くのが微かに聞き取れた。


ふ―――――まったく。この鬼の子は、本当に純粋で、心優しい。


「…俺はこれ以上、福を願おうという気にはならん」
「へ?あ。さてはあなた、お金持ち?」
「残念ながらそうではない。しがないただの侍に過ぎんよ」
「???…じゃあ、幸せになりたいって思わないのは、どうして?」

「………ある程度の自由とある程度の不自由を抱え、穏やかに日々を生きている。
 それだけで十二分に幸福だからな。これ以上を望んでは神仏も呆れて見放すかもしれん」

「むー…?あなたは不自由を抱えていてもいいの?」
「不自由があるからこその自由だ。足りぬものがあるからこその満足だ。
 俺はそれを間違いだとは思わん。そしてそう思えることこそ、幸福の一だと思っている」

だからこれ以上の福を望みはしない。という訳で、その恵方巻きはそなたにくれてやる。
―――すると姫は嘆息して、半眼で俺を見据えた。

「あのね。そう言われたらボクも幸せを願う気になんてなれないよ。ボクだって毎日、自由かつ不自由に生きているんだから」
「………今のは俺の考えであって、そなたの考えではない。姫よ、俺の言葉に納得できるのか?」
「……………なんとなく、わかるくらいだけど…」
「それなら願えばいい。先程のは俺一人の考えであって、この世の理ではない。
 もしかしたら俺の浅はかな考えよりも、神仏はずっと慈悲深いのかもしれんしな」
「………むぅー…」

…下手に吹き込んでしまったが為に、姫は大いに悩んでしまった。
その仕草に幼子らしさを感じて―――その小さな頭に、ぽんと掌を乗せる。

「ふぁ!?」
「難しく考えるな。"幸せ"になりたいと思うのならそれを食べればいいだけのこと。
 そなたはまだ幼い。幼子のうちは思うようにやらねば損だ。事を難しく考えるのは、成長してからで十分間に合う」
「ぁ………」

角に触れぬよう気を配りつつ、小さな頭をゆっくり撫でさする。
姫はいささか驚いたようで、口を半開きにして俺を呆と見つめている。
それは内心、怒るかもしれんなと思いつつ始めた行為だったが、意外にも姫は大人しく、俺にされるがままだった。


◇  ◇  ◇


「……………これ、さ」
「うん?」

しばらく黙っていた姫だったが、急に思い立ったように口を開いた。

「盗んできたところに行って………ボクが食べちゃったヤツの代わりに、これを返してこようと思うんだけど」
「………ほう」
「"幸せ"になりたいって願うんだったら、まずはやましいコトを無くしてからのほうがいいよね?」
「……………ふふ。そうだな」

その発想に感心と可愛げを覚え、微笑んで頷く。
すると姫は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに走り出した。

「ちょっと行って来るから!」

と、そう言うが早いか。
姫はすぐに漆黒の森に溶け込み、その姿をあっさりと眩ました。

「………行って来る、か」

その言葉には、此処に帰って来るという意味が明確に込められている。
―――――どれ。せめて、その帰りぐらいは待っていてやろうか。



「…………………………」

懐からもう一つ、小包を取り出す。
その中身は―――やはり、恵方巻きだ。

「…小腹が空いたな。
 すまん、弟よ。お前の分は明日にでも買って帰る故、許してほしい」

今頃、俺の帰りを楽しみに待っているであろう弟にそっと謝罪を述べる。
………肉親よりも、名も知らぬ鬼の子を重んじるのは愚の骨頂と人は思うだろう。
だが、それでも俺は―――そうせずには、いられなかった。



彼方を見据え、手にした巻き寿司を頬張る。
話す人もいない故、ただ無言で、静謐を壊さぬように。
一口一口、ゆっくりと噛み締めるように進めていく。



―――自身の福はいらぬ。
     俺はもう、幸福に満たされているという自負がある故。

―――だから、この願いはあの子の為。
     とても鬼とは見えぬあの子の為に、俺は福を願おう。

―――鬼の為に願うなど、それこそ神仏は呆れて罰を下すかもしれないが。
     無垢なる者の願いも聞き届けぬような加護であるならば、俺には不要。

―――ただ漠然と、朧月の如き願いではあるが。
     どうか聞き届けてほしい。無垢なる魂を持つ、心優しき鬼姫の為に。



―――――たとえ鬼とて"幸せ"を。
       嗚呼、どうかあの子の下にも"幸せ"が訪れますように―――――。





"たとえ鬼とて幸せを" 了。