眠れる山の嘶きを。
愛する獣の咆哮を。


『命の光』





遥か彼方を見渡せる、高台の岩場。
去り行く友の背を見ず、眼下の新緑を眺める。

眠れる山は、静かに呼吸を繰り返す。
その胎内にいくつもの命を抱えて、山は夜明けの空気を吐く。

愛すべき獣の声を耳に感じつつ、俺は空を仰ぐ。
黒と白の混じれる空に、白い月が微かに見える。


この山が死ぬ。
曲げられぬ理と、山自身がそう告げた。

俺が獣を狩るように。
この山を狩る存在がいるという。


―――――それは、抗えぬ存在。


山の神は告げている。
この世はヒトが支配しているのだと。
世を支配するだけの力を手にした存在に抗える物など、どこにあろうか。





ヒトに牙はない。
ヒトに爪はない。
山の神はそう云った。

だが、ヒトには理がある。
だが、ヒトには手がある。
山の神はそう云った。

それこそが、ヒトのヒトたる所以。
それこそが、この世がヒトの物であるという理由である。
山の神はそう云った。

ヒトは理を以って牙よりも強い力を作った。
ヒトは手を以って爪よりも強い力を作った。
山の神はそう云った。


わからぬ、と俺は言った。


この山における頂点である、我ら狗の一族。
その長である俺には、山の神の言葉が分からなかった。

牙より鋭い物など知らぬ。
爪より強い物など知らぬ。
俺はそう言った。

牙でヒトは倒れる。理で獣は死なぬ。
爪でヒトは殺せる。手で獣は殺せぬ。
山の神はそう云った。

ならばヒトなど恐るるに足りぬではないか。
ならばヒトなど我らが駆逐してやろうではないか。
狗の一族はそう言った。

だが、その先にある力は、何よりも強い。
だが、その先にある力は、この世において何物にも勝る。
山の神々はそう云った。

わからぬ、と獣は言った。
だからこの世はヒトが支配しているのだ、と山の神は云った。

弱者が強者に駆逐されるは自然の理。
それ故にこの地が死ぬのも必然の理。
山の神はそう云った。

ヒトは山よりも強いのか。
ヒトは神よりも強いのか。
俺はそう問うた。

ヒトは山よりも小さい。
ヒトは神よりも脆弱だ。
山の神はそう答えた。

ならば何故、と獣は問うた。
それこそがこの世を制したヒトの力だ、と山の神々は答えた。


やがて森は死ぬ。
この地に宿る命は皆、等しく散る。
山の神々はそう告げた。

己の思うがままにするがよい。
我らは皆、この命が散ることを嘆かわしくも思い、良きことだとも思うておる。
山の神はそう云った。

この山の死を喜ぶのか。
我らの死を良とするのか。
山の獣たちはそう叫んだ。

ヒトもまたこの世の命。
この世に生まれた命の台頭を喜ぶは、当然。
山の神はそう云った。

我らにしてみれば、獣もヒトも同じ命。
世の流れに翻弄される同じ存在、故に我らは受け入れる。


山の神はそう告げて、消えた。





"長"
"どうした?"
"長はこの山から去らないのですか?"
"去らぬ"
"………死ぬのが怖くはないのですか?"
"怖くはない。ただ、生きていたいとは思う"
"ならば、何故"
"………この山で生まれた身ならば、この山に埋めたいと思う"
"……………"
"俺はこの山に残る。神は思うがままにすればよいと云っただろう"

"………長は、耐えられるのですか?"
"………それは、何を指す?"

"私は山の神に訊ねました。残された時はどれほどかと"
"ほう"
"山の神は答えました。数年の時はかかるであろうと"
"ふむ、思ったより長いのだな"
"数年の時をかけて、ヒトはこの森を少しずつ殺していくそうです"
"………そうか"

"………私には、耐えられません"
"……………"
"山が少しずつ蝕まれ、死に行く様を眺めるなんて………私には…"
"ならば、この山から去れば良いだけのこと"
"………長だって同じはずです"
"……………"
"それでも長は残ると仰った。ならばそれだけで、この地に残る理由としては十分です"
"………ふん、馬鹿を抜かすな。この莫迦者………お前、名はあるか?"
"名………長の姉君『華月』と契った者『狗我』。その妹、『歌月』と申します"
"歌月か。姉上と同じ響きを持つ者………姉上はどうした?"
"はい…兄様とこの山を去られました。名も知らぬ地で、子を育むと"
"そうか"


歌月の言葉に、遠くの霞がかった地の果てを見る。
恐らくはあの果てよりも、さらに遠くに行くのであろう。

それならば生き延びるはず………さらばです、姉上。


"……………長"
"何だ"
"お願いがあります"
"ふむ。聞き入れよう"


"………私と、契って下さいませ"

"―――……何を、莫迦なことを…では、そう願う理由を言え"


あまりにも馬鹿げた歌月の言、その意を訊ねる。
すると歌月は俺に寄り添い、頬を擦る。

―――その優しい優しい温もりは、かつての母上を思わせるような。


"………"
"……………莫迦者め"
"そうですね………ですが、長ほどではありません"
"ほう、俺を莫迦と言うか"
"はい"

"長よ。この山に縋り付いて、何を求めるのですか?"
"何も求めぬ。ただ、この地に居たい………それまでのこと"

"何故、この山と死を共にしなくてはならないのですか?"
"……………"

"死ねばそこには骸が残るのみ…ですが、長の骸はこの土に還ることなく、ヒトによって彼方に葬られるでしょう"
"…そうかもしれぬ………では歌月。お前は俺にどうしろと言うのだ?"


寄り添う者を見ず、問う。
白んできた空は、透き通る程に美しい。


我らが御山の織り成すこの景観―――亡くなるなどと、どうして、信じられようか。


"長………どうか、生きてください"
"……………この地で生まれこの地で育った俺が、どこで生きられるというのか"
"どこへ行こうと生きられます。怖れることはありません"
"怖れ………そうか。俺が此処から離れられないのは、怖れているからか"
"長…"
"これでは長など務まらぬな。なんと臆病なことか………"


御山の死を認めたくない。
この地から去りたくない。
すべてはそれなのだ。

御山を護ろうとする意志も。
この地で果てたいとする意思も。
すべてはそれなのだ。


―――なんと、情けない。


『牙』の名を継ぐ者として、これではあまりに不甲斐ない。


"いえ………そうやって認められる貴方は、やはり長に相応しいと思います"
"………歌月、それは慰めか?"
"…いいえ、決して"


擦り寄せ、俺を見据える眼を見詰める。
歌月(そ)の眼には宿る物が在る。
それは恐らく、俺には無いであろう、何か。


"………新たな命に、明け渡す時が来たのだな"
"……………"
"かつて、我らがこの御山に居た獣から支配者の座を奪ったのと、なんら変わりはしない………"
"長………"
"住み慣れた地を追われるというのは、このような感覚だったのだな………"


歌月の眼から視線を外し、再び眼下を眺める。

この新緑に覆われた眠れる森は、命を包んで生きている。

この穏やかな地を奪ったならば、奪われることもまた必然。
それに抗うのは、即ち自然に刃向かうと同義。

弱者は強者に喰われる物。
全てがそれを真理だとして疑わぬ。

そして今、俺は弱者の側に立ったのだ。
ならば、潔く強者に従わねばならぬ。


それが自然に生きる者の、道理なのだから。


"………悲鳴が聞こえるまでは、此処に居る"
"長………はい、承知しました"

"………父ならば…戦う道を選んだだろうか?"
"……ええ………先代ならば、恐らくは…"
"ふ………或いはそれも…"
"長……!"
"だが、我ら一族の大半は既に去った。最早、新たな命と戦うだけの力など残っておらぬ"
"……………"


ひとつ―――――御山に咆哮を響かせる。


残響する俺の咆哮は、新緑の海に、白い彼方に消えてゆく。
寄り添う歌月の咆哮もまた、同じような道を辿る。


"………月光と陽光が混じる頃合い…御山は、こんなにも美しかったのだな"
"………大好きです。この御山が…そしてこの御山に生きる、可愛い命たちが"


◇  ◇  ◇


"―――歌月"
"はい"
"俺の名を呼べ"
"!"
"まさか、知らぬと言うか?"
"そんな筈はありません!ですが、長………"
"聞き届けると言ったであろう。言わぬならそれでも構わぬが"
"そんなこと………では、宜しいのですね?"
"二度は言わぬ"


寄り添う温もりが静かに離れ、向き合う。


"………身に余る光栄です、白牙様"
"……………今の俺は、御山を支配する者ではなく、ただの狗だ"
"いいえ。白牙様は、私たちの長です"
"………"
"我らが狗の、勇ある長です"


"……………莫迦者め"
"ふふ………その莫迦者の願いを聞き届ける白牙様も、また同じではありませんか?"


"………お前と話していると、疲れる"
"それならばお休み下さい。私もご一緒致します"
"いや。もう日が昇る………見なくてはなるまい"


月光が陽光に移ろう時。
―――輝白に照らされた新緑の大海に包まれた命たちが、目を覚まし始める。



御山はこんなにも美しい。
眠る命はこんなにも愛おしい。


だが―――この御山も、やがて死ぬ。


だが、それは我らにとっての死でしかない。
ヒトにとってみれば、この御山の死は、ヒトの生を紡ぐのだから。



"―――――歌月"
"何でしょうか、白牙様"
"………俺も、そろそろ…"

"……………新たな命を育みたい、ですか?"
"なッ!?"

"ふふ…瞳に描いてありますよ?"
"お、お前ッ………!"
"白牙様の、先程の優しい眼差し………間違いなく、良い仔が生まれることでしょう"
"……………"
"楽しみです。どのような仔が生まれるのか…"


言って、優しい眼差しで微笑う歌月を直視出来ずに、御山の彼方に目を向ける。


"―――…太陽が昇る………"


御山の腹から、俄かに顔を出した光の塊。
眠れる御山に目覚めを告げ、命を育む温もりの結晶。


嗚呼。
なんて綺麗な、輝白の光―――――。


"そうか………この光の下ならば、何処で在ろうと…生きていられるのだな………"
"白牙様…"


"ところで歌月。契った者同士に敬は不要だと、お前も知っているだろう?"
"そ、それはそうですが………"
"お前の心遣いは察するが、敬はもう止せ………俺は、妾の仔など要らぬのだからな"
"………!"

"二度は言わぬ。いいな、歌月"
"……………はい、白牙……ッ…!"


微かに潤む歌月の瞳。満面に笑む歌月の情。



嗚呼―――陽光の下、そして、此の温もりの中で………―――――。




『命の光』 了.