「ゔー、まだ痛いな………くっそ、あの性悪人形め…」
おそらく四角いハンコを押したみたいに赤くなっているであろう眉間を、そっとさすりつつ、毒づく。
そしてパソコンの傍に、最近めっきり食べなくなったチロル―――もとい凶器が放置されている。
「………あぁ、やっぱ赤くなってるっぽいな」
ピカピカの窓に映る眼鏡をかけたしかめっ面の眉間は、やっぱり痛そうな色をしていた。
『少年、黒羽、翠想』
「―――――うふふ…」
「!?」
僕しか居ない部屋に、静かな嗤い声が響く/ぞぞ、と背中に冷たいモノが走り抜ける。
「なぁに、その痕?みっともなぁい………」
窓に、黒い影が現れる。嘲笑は止まない。
「お、まえ…!どっから来た!?」
振り返り、嘲笑を消すべく声を荒げる。
「………おばかさぁん」
堕天使よろしく黒い羽根を拡げた水銀燈は、端麗な唇を吊り上げる。
「私からすれば、アナタの家なんて穴だらけなのよぉ…?
だから、そうねぇ………―――夜中に、こっそりとアソびに来てあげてもいいのよぉ?」
"アナタのタイセツなダレかを、ウバいに…いいえ、コワしに………ねぇ?ニンゲン…"
「ッ………!」
「あははははぁ!」
嗤い声は、ひどくなる。
その澄んだ声色は、僕には恐怖と怒りめいたモノしかもたらさない。
「…水銀燈ッ!!」
「くす………こわぁい。でもぉ、アナタひとりで私をどうにかできるとでも思ってるのかしらぁ?」
「ッ………」
ギ、と奥歯が軋む。
悔しいけれど、それは、認めなくてはいけないゲンジツ。
何をどうしようと、僕には何もできない。
―――でも。
「………アイツら…アイツらなら、たとえ相手がお前だって―――」
「―――――勝てるとでも言うの?人間」
―――僕の両手に/黒い羽根が伸びる。
「がっ!?」
ギリリギリリと、黒い綱が僕の手を締め上げ、自由を奪い去る。
「ここでアナタさえコロしちゃえば………。
………いいえ。そんなことしなくても―――――みんなみんな、壊れた子にしてあげるわ」
「……………!」
水銀燈の歪んだ瞳が、そのコトバを不可能だと思わせない。
この狂気が解き放たれれば、そのコトバは―――――。
「………ふふふ」
と、明らかに違う笑い声が漏れる。
すると綱が緩んで羽根に戻り、僕に自由が戻った。
「…え………?」
「今、真紅たちは出払ってるみたいねぇ」
水銀燈の言葉に、十数分前の時間を思い出し、頷く。
なんでも今日はバレンタインだからみんなでチョコを作ったり買ったりする、とか。
雛苺はともかく、まさかあの真紅や性悪…もとい、翠星石まで付いて行くとは思わなかったけど。
「それならぁ………人間、少しおしゃべりしましょぉ?」
「……………は?」
薄く笑う水銀燈とその台詞に、けっこうな驚きと軽いめまいを感じる。
「キョウミがあるもの、アナタに。
もしイヤならぁ………そうねぇ、今すぐにアナタをヤっちゃってぇ…そのアトで真紅たちも壊して………」
「………人にモノを頼むのに脅迫すんの、どうかと思うぞ…」
ズレた眼鏡を直しつつ、ため息をつく。
―――水銀燈の言いたいことは、つまりこういうこと。
『真紅たちが戻ってくるまでの暇つぶしに付き合え』と、まぁそんな感じだろう。
「………勘違いしてるみたいねぇ、人間…?」
その冷えた声が合図だった。
ヒュッ―――と、黒い短剣が、短い髪を掠める/カッ、と耳元で突き刺さる音。
1、で終わらず、2、3―――4度目は、来なかった。
「お願いじゃなくて、命令なのよぉ?自分の立場も理解できてないようなおばかさんにはぁ………」
「………降参」
喉元に突きつけられた黒い刃に抗えるはずもなく、僕は素直に白旗を上げた。
◇ ◇ ◇
―――――水銀燈はベッドに腰掛け、僕はパソコンの前に座る。
まさかこんなことがあるなんて、と思いつつ、僕は水銀燈のヒマを潰している。
………僕に興味がある、なんて言った割にはそう大したことをしゃべらない。
むしろ。
真紅のようにコキ使いもしないで。
翠星石のようにかなりムカつく悪口も言わないで。
雛苺のようにべたべたくっついてもこない。
………僕は恐れていた。
なにせ相手は水銀燈、僕からすればかなり………その、アブない人形。
少しでもその繊細そうな神経を逆撫でたら最期、僕の命はあっけなく消されるに違いない。
―――そうやって考えて、縮めば縮むほど。
外見と言動と行動によって造り出した僕の『水銀燈』は、確かな音を立てて壊れていった。
「………ところで、何本目だ?それ…」
「え?さぁねぇ………忘れたわぁ。だぁって美味しいんですものぉ…」
「あ、そ………」
どこか恍惚とした表情でストローを咥える水銀燈は、僕の目には、もはや別人にしか映らなかった。
◇ ◇ ◇
時計は嘘みたいに早く時間を進めている。
だけど、まだのりたちは帰ってこない。
水銀燈もアテが外れたようで、時々窓の外を見ては何かブツブツと呟いている。
僕としてはヒマを潰す相手をしていたつもりが、その、なんていうか。
「……………楽しい、の、かな…」
「なにがぁ?」
「!」
聞こえないくらいの声のはずが、水銀燈にはしっかり聞こえていたらしい。
ニヤと、他の人形には真似できない笑みを僕に向けている。
もちろん正直に言うはずもなく、適当にごまかしつつ新しい話題を用意する。
「な、なぁ、水銀燈。オマエが最初の薔薇乙女………つまり、まぁ、長女ってことになるんだよな?」
「そうねぇ。だから私はカンペキなのよぉ。真紅たちなんかと一緒にしないでちょうだぁい?」
はは、と苦笑いを浮かべつつ、裏で軽く安堵する。
苦し紛れに持ってきた話題ながらも、水銀燈は追求をせずにちゃんと応じてくれた。
――――――――ただ、その答えに、僕は。
「はは……………………カンペキ、か」
「………?」
「他の姉妹を壊して、ローザミスティカを集めて―――アリスゲームを制して、『アリス』になる………」
「そうよぉ。他のダレにもさせない………私こそが、完璧なるアリスになる……………!」
黒い羽根がはばたき、散る。
水銀燈の目に、異質の光が点る。
―――そして、その真剣さに、確信を得る。
「………だから、壊れるのが嫌なんだな。真紅も、オマエも」
「―――――………!」
ビク、と震える音さえ聞こえてきそう。
それくらい、彼女は怯えている。
「…カンペキでいるなんて、僕たち人間には出来ない。
どこか傷ついて当たり前。なにか汚れて当たり前」
―――吐き気が、する。
「笑われて当たり前。嫌われて当たり前。
憎まれて当たり前。恨まれて当たり前。
恥かいて当たり前。苦しんで当たり前」
―――記憶が僕を捕らえて引きずり込む。
"もしも過去に戻れるのなら"
………僕は何度、そうやって願っただろう。
「……………ゔ………」
「ジュ、ジュン…!?」
ガダッ、ドッ、と重い音が響いて/身体に痛みと衝撃が伝わる。
「………ごほっ、ごほっ…!!」
「―――――!」
―――ダメだ。
……………。
壊れた身体を引きずって、ベッドまでたどり着く。
そばに誰かいたような気がしたけど、無視してベッドに篭もり、世界を閉ざす。
――――――――――。
◇ ◇ ◇
……………まっくらな世界で、ダレかが、ぼくを、見てくれていた。
でも、こんなふうに沈んだ僕を、だれが………?
◇ ◇ ◇
「―――――〜〜〜〜〜!!!」
「!?…ッあ゙………!!?」
眠りに落ちていた意識が、めちゃくちゃ強烈にひっぺがされる。
反射的に耳を押さえて目を開けて見る、と。
「チビ人間ッ!!いったい何を考えてやがるですか!!?」
「………ぃっっ………おいッ……いっててててっ!!」
とんでもない起こし方に文句を言うよりも早く、翠星石の手が俺の頬をがっちりと捕らえる。
「さぁ!私たちのいない間にダレとナニをしていたのか、とっとと吐きやがれです!」
「……………や、め………!」
キリキリと指に力を込めていく翠星石に、届きそうもない声だけで抵抗する。
「……え?ぁ………」
すると意外にも、戒めはあっさりと解けてくれた。
ぐら、と痛みと吐き気に眩むアタマを押さえつつ、翠星石に一言。
「………もう少し、寝させてくれ…。ごめん………」
「…………………………しょうがないですね………」
これまた意外にあっさりと降りた許可に、ありがとう、と口にして目を閉じる。
礼なんていいからさっさと寝るです、なんて声が聞こえて。
僕はまた、この吐き気がする意識を、まっくらなところに戻すことにした。
「―――――………寝たみたいですね」
「……………?」
「その、昼間はちょっとやりすぎたです。
だからその詫びに、チョコクッキー焼いてやったですよ………翠星石は、下僕に優しいですから。
…でも、ぐっすり寝てやがるチビ人間にはぜんぜん関係ない話ですね。だからそのうち、みんなで食べちゃうです」
「……………」
「………食べられたくなかったら、今日のうちに起きるですよ。今日じゃなきゃ、意味ないです」
「……………」
「……………」
足音が遠のく/パタン、とドアがそっと閉められる。
「……………翠星石………なんか、企んでないだろうな………?」
そう呟いて、その考えを止めた。
眉間にチロルをぶつけられた痛みは、もうすっかり消えていて。
「………腹、減った……………」
何か食べたい。
そんな欲求が、ふと、沸き起こる。
―――――そう、例えば、甘いものとか。
「………起きるか」
言い聞かせるように呟いて、重い身体をぐぅっと持ち上げる。
ふらつく身体をなんとかコントロールして、僕はみんなの居る、騒がしい階下へと向かった。
その短い時間に、ちょっと笑ってしまう。
だって、アイツのことだから。
"こ、この翠星石がわざわざ作ってやったんですから大事に食いやがれですぅ!"
くらいのことを言うんだろうな、なんて考えて。
「………大事に食ってやるか」
また、言い聞かせるように呟いて、僕はリビングへのドアを開けた。
END.