その日は気分が悪かった。
ひどい頭痛がして、今日は学校を休もうと真剣に考えた。

「………」

なのに、こうして歩いている。
しっかりと制服に袖を通して、たいして重くもないカバンを持って。
「………バカだよな、僕も」
ふぅ、とため息をこぼしつつ、人の波に乗って学園の門をくぐった。





『Phantasie-059.JPG』





「家で大人しく寝てればいいのに、なんでわざわざ来やがったですか!このバカチビ!」
一時間目の授業を終えてへばっている僕に、情け容赦ない怒声が飛んでくる。
それが誰か、なんていうのは愚問でしかない。というか、確認するために顔を起こすのもつらい。
「………うるさい…アタマに響くから、やめろ……」
恐らく目の前で突っ立っているであろう翠星石に、出来るだけ大きな声で訴える。
ただでさえ放課の喧騒にアタマが揺れているというのに、これ以上追い討ちをかけられてはたまったもんじゃない。

「翠星石。ジュン君はどう見ても病人でしょ?」

と、ここで落ち着いた声が間に割って入ってきた。
そしてそのまま、あーだこーだと口論が始まる。

「蒼星石………そ、そんなことはわかってるです!」
「だったらどうしてそんなに大声で怒鳴りたてるの?病人には優しくしないと」
「う…こ、こんな自分の体調も省みないバカ、どうだっていいんです!」
「………さっきの授業、ジュン君の方ばっかり見てたくせに」
「!!…な、ななな何を言うですかっ!そ、そんなことしてねぇですよ!
 た、ただ翠星石は保健委員ですから、あんまりにも調子悪そうなバカが気になってですね………」
「ずっと見てました、と。
 やぁ、感心感心。仕事熱心だね。それじゃあさ、ジュン君を保健室まで連れてってあげてくれる?」
「ッな、なな、なんで翠星石がこんなチビのために行かなきゃならねぇですか!!お、お断りです!」
「だって保健委員でしょ?それも随分仕事熱心な、ね。
 でもまぁ、翠星石がイヤなら僕が行くよ。僕も保健委員だから………あ、でも次の時間、僕は移動教室だっけ。」
「っ………しょ、しょうがねぇです。蒼星石に頼みたいですが、遅刻させちゃマズイですからね。
 バカチビ、起きるですよ。とっとと保健室に行くです………チ、チビ?」

「……………静かにしろ、って………言っただろ………この、性悪…」


◇  ◇  ◇


「―――――ったく。何の為に学校に来たのか、わかりゃしねぇです」
「………わりぃ……」
吐き気をこらえつつ、振り落とされないようにしっかりと翠星石の背中にしがみつく。
―――文句を言われても"構うもんか、こっちだって必死なんだ"
………と、翠星石が何か文句を言ってきたら言い返してやろうと思っていたが、意外にも、何も言ってこなかった。



結局、僕は何もしないまま帰らされることになった。
保健室は最近担当の先生が忙しいせいであまり開いてなく、一応行ってみたが今日も鍵がかかっていた。
それで職員室に顔を出したところ、担任が僕の顔を見るやいなや、帰れの一言。
………ということで、まだ午前中にもかかわらず、家路に着くハメになった。

『やっぱり帰ることになると思った。荷物、まとめておいたよ』
教室に戻ると、蒼星石が僕のカバンを持って待っててくれて。
『おばかさんねぇ。素直に家で休みなさい、あとでちゃぁんとお見舞いに行ってあげるからぁ』
なぜか水銀燈も待っててくれて。
『自分の身体は自分で面倒を見るものよ。まったく………早く帰りなさい』
真紅も辛辣ながら言葉をかけてくれて。

―――――すごく、うれしくて。

『ありがとう』
そう、素直に言えた。きっと、誰にも聞こえてないけれど。

そして蒼星石からカバンを受け取って、歩いて帰るべく一人で下駄箱に向かう。
「ゔ………」
廊下を歩くだけで吐き気が軽く込み上げて、足元がふらつく。
「………ひどく、なってる……な…」
それでも、帰るしかない。
僕の家に親はいない。姉は学校―――――だから僕は、一人で帰らなきゃならない。
「……………」

「来るのがおせぇですよ、ジュン」
「―――え?」

地面を見ていた顔を上げると、いつの間にか下駄箱までやってきていた。
そして、靴を履いて立っていたのは、翠星石。
「………どうしたんだよ、オマエ…」
「翠星石は良いコですから、家まで送ってってやるです」
さらり、と。
目の前の保健委員は、そんなバカげたことをあっさりと口にする。
「……………バカ。授業はどうするんだよ」
「もう担任に話つけといたです。自転車の後ろ、乗るですよ」
「………いい。歩いて帰る」
ぐ、っと翠星石を押しのけて、自分の靴を取る。
「ッ…」
ズキン、と鈍い痛みが走る。

それを引鉄にして、膝から力が抜ける/剥き出しのコンクリートに、膝を打ち付ける。

「ジュン!」
「………はぁ、ッ…」
目眩がして、いよいよ吐き気が激しくなってきた。
もしかしたら、立つのもままならないかもしれない―――――。

「ほら、立つです………よっ」
「―――ぁ」

そんな壊れ物の身体を、翠星石が支えながら立たせてくれた。
触れる手、近い距離に、心臓が跳ねる。

「す………」
「こ、こうでもしなきゃ立てないなんて…それでも学校に来るなんて、どこまでバカなんですかっ!
 ほら、とっとと帰るですよ。支えててやるから、頑張って歩くです」
「……………わりぃ…」
「礼ならジュンが元気になってからもらうです。高いですから覚悟しておくですよ」
「……………」

半分本気で心配しつつ、翠星石の自転車までなんとか歩いて行った。



「―――!?す、翠星石………!いないと思ったら、そういうことだったのか…いいなぁ………」
「………!?ふふ、いいモノ見ちゃったぁ……でも、アレはマズイわねぇ。どうしようかしらぁ…」
「翠星石………人の下僕に手をつけるとは、いい度胸ね…!」

「せんせー。蒼星石と水銀燈と真紅が窓の外ばっかり見てるのかしらー」
「「「!?」」」
「カナ、告げ口はよくないと思うの…」
「ふん、授業もマジメに聞けないヤツに情けをかける必要はないのかしら!」
「………カナ、メール着てる…机の中………」
「っひゃぁ!?ば、薔薇水晶っ!?」


◇  ◇  ◇


「ここ、だ…」
「わかったです」
ゆっくりと、二人乗りの校則違反チャリが停車する。
「ありがとう、翠星石。助かった…」
「べ、別に………です」
「はは…じゃあ、またな。礼は今度するから」
そう言ってドアを開けようとする背中に、待って、と声がかけられる。
「…?」
「………今、家には誰かいるですか?」
翠星石の意外な質問に、首を振る。
すると、つかつかと近寄ってきて、僕の額に手を当てた。
「ぅあ!?」
「あ、あっつい………こ、こんな重病人を一人でほっといて帰れるワケねぇですよ!」
「………はぁ?」
「だ、だから………こ、この翠星石が面倒みてやるって言ってるです!わかったらとっとと家に入るです!!」

バカみたいに顔を真っ赤にして、目の前の保健委員はそんなバカみたいなことを言った。

「………オマエ、学校戻れよ」
「そんなのどうだっていいです。後で適当にごまかしちゃえばいいですから」
「あの、な………ゔ、ヤバ………」

ごぷ、と。
胃のあたりから、モドッテクル、感覚。
―――――それを、ギリギリで堪える。

「………勝手に、しろ……………ぐッ」
ポケットから急いで鍵を出し、ガチリと開ける。

そのまま何も考えずに、一直線にトイレへと駆け込んだ。


◇  ◇  ◇


胃の中身をひとしきり吐くと、気分は少しだけラクになった。
ただ、頭痛はどうにも引っ込んでくれそうにない。

「……………ぁ」
「………絶対、帰らないです。心配でしょうがない、から………」
「………そっか、じゃあ上がれよ」
「………うん…」

それだけ交わして、俺は自分の部屋に向かった。



鬱陶しい制服を脱ぎ捨て、軽い部屋着に袖を通す。

「ジュン、入るですよ」
と、そこで翠星石がなにやら色々持って入ってきた。

「熱がひどかったですから、水をたくさん飲むです。
 それと、これは薬です。飲んでから眠れば、だいぶラクになると思うですよ」
床にお盆を置いて、まるでのりみたいにいちいち説明をしてくれる。
普段なら"分かってるよ"の一言で片付けるそれも、今はなんだかすごく素直に受け取れる。
「ありがとな、翠星石」
それだけ言って、薬を冷えた水でぐっと胃に流し込む。
身体はかなり水分を欲していたようで、すごく、スゥ、とした感覚。

「…………………………」
「ん…?」

二杯目の水を飲み干して、さぁベッドで寝ようと思った僕の目に、妙な光景が映る。

「………何してんだ?翠星石」
「……………」
ベッドの、ちょうど枕のところで正座している翠星石に疑問を投げる。
が、真っ赤な顔をしたまま俯いていて、何も答えが返ってこない。
「………?」

その意を掴みかねて考えている僕に、蚊の鳴くような声が聞こえた。

「………ら…す…」
「は?」
聞き返す。
「………まく………です」
「…聞こえないんだけど」
もう一度、聞き返す。

―――――そこで、翠星石は顔を上げた。


「ひざまくらしてやるですから、早くこっちに来やがれですぅ!!!」


そう――飛ぶ鳥を落としそうなくらいの勢いで――真っ赤な顔で、彼女は叫んだ。


◇  ◇  ◇


「………」
「……………」

あんまりにも馬鹿げた提案を、僕は断れなかった。
してほしかったから、じゃなくて、ああ言ってからの翠星石が、ずっと黙りこくってたから。
どういうつもりで言ったのかは聞かないまま、僕はこうして翠星石の枕に頭を預けている。

「………」

翠星石の指が、僕の髪の毛を梳いていく。
それは、とてもやさしい指使い/とても心地よい感触。

「どうして、あんな無理をしてまで学校に来たですか?」

やさしい問いかけ。
そこには"答えなくてもいい"という意思が込められていた。

「………ひとりがいやだった」

だから、答えた。
どこか呆けたアタマで、本心を吐いた。

「僕は、あの高校で、みんなと会えて、ひとりじゃなくなった。
 水銀燈、金糸雀、翠星石、蒼星石、真紅、雛苺、薔薇水晶………」

脳裏に過ぎっていくのは、それぞれの言葉と笑顔、そして断片的な日常の記憶たち。
―――高校以前の記憶からは、何も拾ってこれない。


だって、捨てたいと願ったから/そんなの、捨てられるはずもないのに。


「………それだけ」
「……………ジュン」
「…ん?」
「………なんでもない、です」
「………ん」


言わないでくれた優しさに感謝して、僕は滲んだ世界を閉じた。


◇  ◇  ◇


「―――――ぅ………」

ふと、目が覚めた。
部屋の明るさは―――橙色で、日が傾いていることを教えてくれる。

「………あ、起きたぁ…?」
「うぅ、ん………え?」
近くに置いといた眼鏡をかけつつ、落ちてきた声の方を向く―――――と。

水銀燈が、微笑んでいた。

「―――――す、す、水銀燈ッ…!?」
「そうよぉ。どう、ジュン?具合はぁ………?」
くす、と笑いつつ、僕の額に白い手を当ててくる。
ひんやりとした彼女の手に、鼓動が早くなるのを感じる。
「…まだちょっと熱いわねぇ。もう少し寝てていいわよぉ?」
「いや、ちょっと、待って。な、なんで水銀燈が?」
「うふふ………まぁ、勝者の特権ってところかしらねぇ」
「………?」
眠る前と後でまるで違う景色に混乱する僕に、水銀燈はよく分からないことを言った。


「ねぇ、ジュン」
「…?」
翠星石と同じように髪を梳いていく水銀燈。
僕に語りかける言葉、でも、その視線はどこか遠い。


「………ひとりがイヤなのは、あなただけじゃないわ。私だって、そう………」
「え……」
「だから、寂しいときは言って?私はそれを、埋めてあげたいと思うから」
「…水銀燈?」
「……………ふふ、ごめんなさぁい。ガラでもないこと、言っちゃって………今のは忘れてねぇ?」

そう言って笑う水銀燈の顔は、悲しい笑顔だと思った。
ひどく、胸を締め付ける笑顔。

「す―――――」

「水銀燈ッ!!とっととそこをどくですよ!!」
「今度ばっかりは僕も負けないッ!」
「三人とも、どきなさい。今度は私の番よ!」

―――バァンッ!!
と、ドアを壊しかねない勢いで、見覚えのある三人が乱入してきた。

「…翠星石に、蒼星石に、真紅………?」
「………あーあ、いいトコロだったのにぃ。しょうがないわねぇ」
「………なぁ、水銀燈。説明してほしいんだけど」
なんだか知らないところで進んでいる話を理解するべく、水銀燈に説明を頼む。
水銀燈は頷いて、僕が眠っている間の世界を教えてくれた。

「あなたが翠星石に膝枕をしてもらっているころ、私たちもここに来たのよ」
「は?」
「授業、みんなですっぽかしちゃったのよぉ」
ケラケラと可笑しそうに笑う水銀燈。
「………僕は反対したんだけどね」
「でもここにいる以上、言い逃れはできないですよ。蒼星石」
蒼星石はやはり優等生。罪悪感から俯いて、翠星石の一言に声を詰まらせる。
「それでねぇ………」
「いや……………自惚れかもしれないけど、事情はつかめた」

おそらく―――――僕を膝枕するために、みんなで何かしらの勝負をおっぱじめたんだろう。
部屋を見渡すと、どことなく散らかった感が漂っている気がするのも、たぶんそのせいだ。

そんな聞くのも言うのもめちゃくちゃはばかられる事情を飲み込んで―――――もう一度、水銀燈の枕に頭を預ける。

「なッ!」
「あっ!」
「ちょっと!」
「わぁ…」

「……………悪い。もう一眠りしないと、ダメだ」

それだけ告げて、眼鏡を外し世界を閉ざす。
―――すぐに、僕の耳にそれぞれの言い争いやら何やらが飛び込んでくる。



―――――――この喧騒があるかぎり、僕は、ひとりじゃない。
       そう思うと、この痛むアタマに響く声すら、大切に思えてくる。



―――――――"ありがとう"



そう、喧騒にかき消されるくらいの声で呟いてから、僕は夢に落ちた。



FIN.