シャーペンはあるべき動作をしない。
ただ、僕の指によってふらふらと空中を漂うばかり。

「手が止まってるわよぉ、ジュン?」

と、向かいの水銀燈から鋭い指摘が飛んでくる。
………僕はひとつため息をついて、天井を仰ぎ、呟く。

「どーにもわかんないんだよ………」





『勉強・・・』





今日は休日。
休日返上で学校に出ることもない、久しぶりの休み。

だが、僕はその休みをまったくもって満喫していない。
違いといえば、ここが僕の部屋であることと、私服であること。
あとは………水銀燈、そして薔薇水晶の、三人だけで勉強していること。

計画を持ち上げたのは水銀燈だった。
大事なテストの前だから一緒に勉強をしましょう、なんて。

………本来なら勉強なんてまっぴらだから断りたかった。
だけど、実は前回の中間で派手にすっ転んでしまった為、勉強をしないワケにもいかなかった。
そして、水銀燈は学年でも上位に食い込むレベルの才女。
彼女に教えてもらえばそう労せずに危機をくぐり抜けられる、と僕は考えた。
何より、一人で勉強するのは精神的にキツい。
話し相手がいればなんとかなるかな………など、色々考え、結局僕は水銀燈の申し出を受け入れた。
ちなみに薔薇水晶は"一人になりたくない"という理由で水銀燈についてきたらしい。

水銀燈も薔薇水晶も抵抗なく問題をすらすらと解いていく。
水銀燈は古文を、薔薇水晶は英語を、僕は数学を………放置している。
「ふぅ………」「終わった………」
シンプルでシャープなデザインの眼鏡をくいっと動かしつつ、水銀燈は古文のテキストを閉じる。
特に疲れた様子も何もなく、薔薇水晶は英語の教科書を閉じる。
「……………」
僕は世の中の不公平さを恨みつつ、目の前のプリントと睨めっこする。
「ジュン………まだ、できないの…?」
とりあえず休憩モードに入った薔薇水晶が、精神的に痛い一言を投げてくる。
「…出来ないの。ほっとけ」
「その教科は私たちと違うから、教えてあげられないわねぇ…」
んー、と伸びをしつつ、水銀燈は残念そうに呟く。

彼女の言うとおり、この教科は違うモノ。
より専門的な英語か、より専門的な数学か………その二択を迫られた僕は、数学を選択した。
そして水銀燈と薔薇水晶は英語を選択した。つまり土台が違うワケだ。
それなら教えてもらえる教科をやればいい、と思われそうだが、あいにく一番どうにかしなきゃいけない教科はコレ。
まずはこいつをどうにかして、それから他に繋げなきゃいけない。
中間では答案が赤々としていたから、もうコケることは許されない。

「はぁ………もう、嫌だ…」
睨んだところで難問が解けるハズがない。考えたところで僕にはどうにもできない。
………もう、なんというか諦めの境地で机に突っ伏す。

「……………」
「っわ!ばば、薔薇水晶!?」
と、すぐ隣に人の気配がして/見ると、薔薇水晶が俺の問題をじーっと見つめていた。
「……………」
「………もしかして、出来たりする?」
「……………………ムリ…」
「ですよね…」
浅はかな希望もあっさり砕かれ、もう一度、深く深くため息をつく。

「でも………元気、出して…」

え、と俺が反応するよりも早く/薔薇水晶の唇に、言葉が塞がれた。

「………!!!?」
「ち、ちょ、ちょっと薔薇水晶!!?何してるのよぉ!!」
「ぷはぁ……………元気の出る、おまじない…」
唇を離して、慌てふためく水銀燈にしれっと返す薔薇水晶。
僕はというと、あまりにも突然で想定外のゲンジツに、どうしようもなく混乱するばかり。
柔らかかった唇とか、微妙に絡みそうだった舌とか、薔薇水晶の匂いとか………とにかくその、意識がかき乱されて。

「………ふふ、うふふ……………敵は本能寺、じゃなくて、肉親にあったのねぇ…」
怖い声で怖いことを水銀燈は呟く。
「……………なにが…?」
こちらはある意味もっと怖いことを平然と答える。どうも、水銀燈の怒りを買ったことに気付いてないっぽい。
「ジュンは私のモノなのよぉ、薔薇水晶…?アナタにも言ったでしょぉ…?」
「………知ってる…」
薔薇水晶の答えに、僕はいっそう驚き、怖くなる。
僕と水銀燈が付き合っていることを知った上で、あんなことをしでかしたのかコイツは。

「……………だけど………私も好きだから……それだけ…」

「はぁ!?」
これまた予想外の薔薇水晶の言葉に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
だがそんな僕を意にも介さず、薔薇水晶は言葉を続ける。
「………ただ、私はジュンが好きなだけ…それだけ………」
「薔薇水晶…アナタ、それはワガママなんじゃないかしらぁ?
 人のモノは勝手に盗っちゃいけないのよぉ?わかってるぅ?」
………はっきりとモノ扱いされてちょっとムッとするが、ここは黙っておく。

「…銀姉様から、ジュンを盗ろうなんて思ってない………」
「え?」
「ただ、私は………好きだから…それだけ…」

薔薇水晶はさっきから似たような言葉を繰り返す。
水銀燈は信じられない、といった顔で薔薇水晶を見る。

「……薔薇水晶。アナタは、報われなくてもいいっていうの…?」
「………?」
「アナタの想いに、ジュンが応えてくれなくても、いいっていうの?」

追求する水銀燈の声は、どこか、震えすら混じっている。
その問いに、薔薇水晶はただ答える。

「……………ただ、ジュンが好きなだけ………薔薇水晶は、それだけです。銀姉様」
「「………!」」
強まった薔薇水晶の言葉に、僕も水銀燈も言葉を失う。

なんて素直―――いや、愚直で、純粋なんだろう。
どこか狂気じみているとさえ、ひどいとさえ思えるような、薔薇水晶の想い。
愛するから愛してと願った水銀燈とはまるで違う。
ただ愛するという、それだけ…見返りも報いも求めない、愛情。

「………休憩……………」
そう、何事もなかったかのように薔薇水晶は呟いて、僕の部屋から静かに出て行く。

「………水銀燈…」
「…………………………」
呼びかけに、返事はない。
その顔を見ると、元々白い肌が、蒼白と言っていいほどに青ざめ、引き攣っていた。


◇  ◇  ◇


「……………げほっ、げほっ…」

銀姉様。ジュン。
ごめんなさい。薔薇水晶は悪い子です。

ジュンにたくさん愛してほしい。ずっとそばにいてほしい。
薔薇水晶は、銀姉様に負けないくらい、そう思っている。

だけど、ジュンの想いは銀姉様が得たモノ。
だから、私なんかが望んじゃいけないモノ。

銀姉様。ジュン。薔薇水晶は嘘をつきました。
本当は報われたい。本当はいっぱい愛していっぱい愛されたい。

でも、それは赦されない。
ジュンへのこの想いは、もう抱くことすら赦されない。

………それでも、この想いだけは捨てられない。
生まれて初めて知ったこの想いを捨てることは、許さない。


だから私は嘘をついた。
愛されなくてもいいから、愛し続けると。

だって、薔薇水晶は。
ジュンのことも。銀姉様のことも。同じくらいに愛しているから―――――。


「……今日は……帰ろう……………」

鏡に映った薔薇水晶を見て、私はそう呟いた。


◇  ◇  ◇


「帰るのぉ?」
「っ………!?」
靴を履き終えたところで、聞きたくなかった声がした。
「…銀姉様………」
「あぁ………ひどい顔ねぇ。これじゃジュンに見せられないわぁ」
つぅ、と銀姉様の指が、私の汚れた頬をなぞる。
「………ねぇ、薔薇水晶」
「……………はい…っ!?」

ぎゅっ、と。
銀姉様が、私を抱き締める。

「姉、様…?」
「ごめんなさい………たくさん、嘘をつかせちゃったわね…」
「…え」
「馬鹿よね、私。ジュンが私のモノだなんて言いはって。
 ………私はアナタに何も告げないままジュンを手に入れて、勝ち誇ったように、アナタに教えたっていうのに」

静かな声に、その時の光景が鮮明に蘇る。

『薔薇水晶、聞いてぇ』
『…?』
『ジュンと付き合うことになったわぁ』
『………ぇ…』
『よろしくしてあげてねぇ。未来のお義兄様なんだからぁ』

―――あぁ、あの夜はひとりでたくさん泣いたっけ。

「でも………悪いのは、私……………銀姉様は、悪くない…」
「ううん。私はズルをした。
 アナタはきっかけがないと動き出せないって知っているのに、私はきっかけを与えないままだった」
「…銀姉様………だから、それは全部、私が…」

「いいの」
ぎゅう、と/より強く抱き締められる。

「私が悪いことにしてちょうだい、薔薇水晶…」
「あ………銀、ねえさま…っ」
「ごめんなさい、薔薇水晶」

銀姉様の胸の中で、私は、堰を切ったように泣き続けた。


◇  ◇  ◇


「―――私ねぇ、さっきジュンと別れたのぉ」
「…!?」
気持ちが落ち着いた頃、銀姉様は突然、信じられないことをこともなげに言ってのけた。
「誤解しないでねぇ。あなたの為じゃないのよぉ?」
「…じゃあ………?」
「私がスッキリする為、それだけよぉ」
「………銀、姉様…」
その言葉は嬉しかった。
そこには、私に対する想いも込められていると、そう思ったから。
………でも…。
「…でも、それじゃ…ジュンがかわいそう…」
「………ふふ、いいのよぉ」
「え?」
私の心配に、銀姉様は薄く微笑む。
「だぁってぇ………別れたと言っても、関係を絶ち切るワケじゃないわぁ。ちょっと昔に戻るだけよぉ」
「…あ………でも、でも…」
銀姉様はそれでよくても、ジュンの心は絶対に穏やかじゃないはず。
………それは言うまでもなく、私のせい。

「だから、いいのよぉ…こんなにも美しい女の子、二人に想われているんだから。
 薔薇水晶。今はジュンを葛藤の海に沈めて、苦しめてあげましょぉ?
 ―――――そして彼に選ばれた方が、それ以上に甘い蜜を吸わせてあげればいいんだからぁ…」

「………あ……」
「私たちから言っちゃダメよぉ。これはジュンに選ばせるの…いいわねぇ?……ふふ…」
銀姉様の悪戯な微笑と言葉たちが、私の罪悪感を払拭する。

これは、銀姉様が用意してくれた舞台。
そこで私は、生まれて初めて、銀姉様と勝ち負けを決める闘いに望む。
私の憧れの人が、愚図な私にチャンスをくれたから。
………私は、終わった時に後悔も反省もしないような闘いをしようと思う。

決意して、銀姉様の胸から離れ、少しだけ高い赫の瞳を見上げる。
そして、どちらともなく告げる。


「銀姉様…薔薇水晶は…ジュンが大好きです」「薔薇水晶。水銀燈は、ジュンを愛してるわぁ」


真剣に見詰め合って、それぞれ宣戦布告をする。
―――――くすり、と。どちらともなく微笑んで。

「さ、お勉強の続きしましょぉ?」
「………はい……………」
靴を脱ぎ捨て、前を歩く銀姉様の背中を眺めつつ、歩く。

あの背中から、たくさんのことを学んだ。
だけど、今からは。
あの背中を追い越す為に、いろんなことを勉強しなくちゃいけない。
あの、憧れ"だった"銀姉様に………。


「………負けないわ……………水銀燈…」
―――その誓いに、薔薇水晶は、決して折れることのない覚悟を決めた。



FIN.