◇  ◇  ◇


―――どこかスッキリしない心地で、部屋に戻ってきた。
湯上がりの身体は熱いから、少しだけ窓を開けて風に当たる。
「………ホントに寝てる…昨日、何してたんだか…」
座布団を連ねて熟睡している笹塚に苦笑しつつ、夕方の町を見下ろす。
「……………」
「―――っ…うん………?はれ……ジュン…?」
名前を呼ばれて、視線をそっちに移す。
「あれ、起きた。まだメシまで時間あるんだから、寝てれば?」
「………いい。ってか、浴衣着てるってことは、風呂に行ってたのか…?」
「ああ。笹塚も入って来いよ。目ぇ覚めるぞ」
「………そうするかな」
くはぁ、と大きな欠伸をしつつ、笹塚はカバンからタオルを取り出して、部屋を後にした。

「ふぅ………そうなると、僕がヒマになっちゃうな…」
小さくため息をつき、窓を閉めてから椅子に腰掛ける。

「………はぁ……」
露天風呂で盗み聞いた言葉、そこから自分で繋げた想像に、再びため息をつく。


―――――僕は、水銀燈の真意が聞きたい/彼女の口から、直に。


でも、それは怖いことだ。
別れを告げられた理由を聞くのは、怖い。

好きなら別れてくれ、なんて、なんで?どうしてそんな?
僕と一緒に居られなかった理由はなんなんだよ?
そして、あれから―――――今まで。

僕を、どうして、遠ざけようとしないんだよ?

今までみたいに笑って。
今までみたいに悪戯して。
今までみたいに―――いっしょに居るのは、なんでなんだよ?
別れようって言ったのは、オマエなのに。
別れたように思わせないのは、なんでなんだよ?

なぁ。水銀燈………―――――。


◇  ◇  ◇


「―――――!――ン!!」
「………ぅ…ぁ…?」
ガクガクと、自分が揺さぶられてるのに気付いて/眠っていたことに気付いて、重いまぶたを開ける。
「ジュン!いい加減に起きやがれです!!」
「っ………す、翠星石?」
くらくらするアタマを、キツい声が無理やりにハッキリさせる。
目の前に居るのは、オッドアイで長髪の、浴衣姿の女の子―――翠星石。
浴衣姿なのは、きっと温泉に入ったからだろう。
「ったく。もう夕飯の時間ですから、さっさと起きやがれです!」
「………げ。そんなに寝てたのか…ぁ…」
時計を見ると、短い針は確かに6を指している。
窓の外も、人工の明かりに頼り出しているのがよく見える。
「あぁもう、ほら!行くですよっ!」
「ぅわ―――!」
がしっと手を掴まれて、ぐいっと強引に引かれ、立たされる。
「ちょ―――!」
「あ」

そうなると。
自然と、二人の距離は近すぎるくらいに近くなるワケで。
………というか、その、抱きしめているといっても過言ではないような。

「すす、翠星石…えと、その、悪い!わざとじゃないから!」
「ぁ………」
微妙に当たるやわらかいモノとかその辺を意識しないようにしつつ、慌てて距離を離す。
―――この後は間違いなく、耳をふさぎたくなるような大声でギャーギャーわめくんだろうな。

「……………ジュン。みんな、待ってるですよ。だから急ぐです」
「………え?」
「………何をぼーっとしてやがるですか。はぁ、しょうがないですねぇ」
あんまりにも予想外な翠星石の反応に、呆気に取られていると。
―――いきなり、翠星石は僕の手を掴んで、引っぱるように歩き出した。
「は、ぁ、ええ…?」
「……………」
離れようとしても、しっかりと繋がれた手は、そうさせてくれない。
そして、こんな妙な行動に出た翠星石も、黙りこくったまま歩くばかり。

結局。
お互いに何も言わないまま、みんなの待つ大広間までたどり着いた。


◇  ◇  ◇


「…ほら……あーん……」
「いや、ふつうに自分で食べれるから。みんな見てるし」
「………気にしない…」
「いや、僕が気にする」
「あーぁ。まったく、どこの新婚さんだよおまえら」
「ちがーうっ!」「…新婚さん……♪」
「―――ジュン。お茶を注いでちょうだい」
「はぁ!?それくらい自分でやれよ!」
「主人の命令が聞けないの?」
「――くす…真紅はジュンがいないとなぁんにも出来ないコなのねぇ………おこちゃま…」
「っな!ば、バカなことを言わないで頂戴!」
「それじゃあ…自分でやりなさぁい?カンタンでしょぉ?」
「くっ………む、ムカつくわ…」

「おーい…もう少し、平和に食べようよー…」
「ほっとくですよ、蒼星石。痴話ゲンカはイカも食わないって言うですし」
「…す、翠星石………それを言うなら、イヌだよ…」
「え゙…そそ、そんなの知ってるに決まってるです!わ、私は…蒼星石のツッコミ力を試しただけです!」
「……ふーん………ボケ役ご苦労様、翠星石…」
「あぅ…目が冷たいですよ、蒼星石………」

「ふふ…みんなで食べるご飯は、とても賑やかで…楽しいわ………」
「そうね。…ふふ、本当に…」
「柏葉さん………」
「な、何?雪華綺晶」
「…私は、誰かを愛してはいないけれど………ここにいるみんなのことが、大好きです」
「…!」
「だから、さっきの私は嘘をついた………好きな人は、こんなにも近くに、こんなにもたくさんいたんですから…」
「……そう。私も…雪華綺晶と同じね。ここにいるみんなのことが、好きだから」
「そうですか…ふふ、なんだか照れくさいです……」
「くす……そうね」


◇  ◇  ◇


「―――あぁ、おいしかった」
「んー…まぁ、な」
騒がしい夕食を終えて部屋に着いたところで、お互いに感想を述べる。
「なんだよ笹塚、歯切れが悪いな」
「………少しだけ、口に合わなかったってことで」
悪びれる様子もなく、しゃあしゃあと生意気を抜かす笹塚。
そのまま窓際の椅子にどっかと座る様は、まるで食後の一休みとでも言いたげだ。

『―――――♪―――♪――』

「ん?僕の携帯…?」
勢いよく鳴り出した場違いな音に、フトコロに忍ばせておいた携帯を見る。
「メール………え、翠星石から…?」
翠星石による、またしても予想外な行動に疑問符を浮かべつつ、メールを確認する。

『エレベーターで2階まで来るです。あ、笹塚には内緒ですよ』

「………笹塚。出かけてくる」
「お呼び出しか。行って来い」
あっちいけしっし、とまるで厄介払いをするように送り出された。

「……………なんだろな。まぁ、僕も聞きたいことがあるし…」
ちょうどいっか、なんて考えつつ、長い廊下の先にあるエレベーターまで向かった。


◇  ◇  ◇


―――ポーン、という音が鳴って、ドアが開く。

「あ、やっと来たがったです。ったく、遅いですよ」
「………これでも直で来たんだけど。それで、何の用だよ?」
開いたところで、目の前に居た翠星石から理不尽な台詞が飛んでくる。
それを軽く受け流して、ズバッと要点を聞く。
「へへ、ちょっとイイモノ見つけちゃったですよ。こっちこいです」
子どもみたいに無邪気な顔でそう言って、翠星石は廊下を歩き出した。
……イイモノってなんだろう、と真剣に考えつつ、僕はその後についていく。
「―――ほら、コレです」
と、少し歩いたところで、翠星石が振り返って何かを指差す。
僕はそれが見えるところまで近寄って―――――。

「………卓球台、か」
「へへ。旅館内を散歩してたら、偶然見つけちゃったですよ」
なるほど。確かに温泉宿なら卓球のひとつやふたつ、あっても別におかしくないだろう。
………最近はなくなったんじゃないかってくらい見かけなかったけど、意外とそうでもないのかな。
「それで、勝負しろって話?」
「そういうことです。ふふふ、ケチョンケチョンにしてやるですよ!」
傍に置いてあったカゴから、ラケット2つとピンポン球を用意する翠星石。
…貼り紙を見る限り、正しく使えば無料でいいみたいだ。ちょっと安心。
「負けたらそこのジュース1本おごりですよ!」
「別にいいさ。負けなきゃいいんだから」
手渡されたシェイクハンドをぐっと握り締め、軽く素振りをする。
「ルールは、そうですねぇ……先に11点、取った方の勝ちですよ」
「デュースはアリか?」
「もちろんです。サーブは2本交代でいいですか?」
「問題ない。それじゃ、さっさと始めるか!」
浴衣で多少動きにくそうだけど、それはあっちも同じ。
つまり、負けたときの言い訳は互いにゼロ。完全に実力勝負だ。
「それじゃ、行くですよっ!」

翠星石のサーブを合図に、ちょっとした熱戦が始まった。

◇  ◇  ◇

「―――――あ。ミ、ミスったです…!」
「よし、これでなんとか2−4………てか、タイム」
「え、何ですか?トイレにでも行きたくなっちゃったですか?」
「違う。あのな………浴衣で激しく動くと、着崩れることくらい…わかってるよな?」
「はぇ?」
自分の崩れを直しつつ、翠星石から視線を外してそう告げる。
「うひゃぁ!?あわ、わわわわっ!!みみ、見るなです!!」
「…見てないっつーの。いいから早く直してくれ。僕もやりづらくてしょうがないんだ」
自分が晒していたあられもない姿にようやく気付いた翠星石。
………そんなのを試合中見せられたほうとしては、その、イイワケのひとつとして挙げたくもなるワケで。

「――ま、待たせたです!ほら、とっととかかってきやがれですよ!」
「………あ、うん…」
それとなく元通りになった翠星石が、かかってこいとばかりに声を大きくする。
―――それに少しの違和感を感じつつ、僕はサーブを打った。

◇  ◇  ◇

「―――――やっぱり、ジュンが相手じゃ張り合いないですぅ…」
「ぐ………ざ、惨敗かよ…」
浴衣の乱れという度々の中断の末、4−11というスコアで翠星石が勝利した。
僕としては負けたショックも確かにあるが、翠星石の、その、着崩れた姿が焼き付いてしまって困っている。
「ほら、さっさとおごれですよ」
「わかったよ、うるさいな………何を飲むんだ?」
「えーと……あ、コレにするです。ジュンは何を飲むですか?」
「俺?まぁ…………コレにしとくかな」
スポーツをした後なので、やっぱりスポーツ飲料が飲みたい。
そう考えつつ、サイフの中をさばくって、まず150円を取り出して翠星石に渡す。
「え?ジュン、30円多い…」
「どうせ飲むならペットボトルのがいいだろ?」
「あ………ありがとう、です」
消え入りそうな声でそう呟いて、翠星石は小銭を入れてペットボトルの紅茶を買った。
僕も同じように150円の―――。
「ちょっと待つです」
「え?」
小銭を入れようとした僕を遮って、翠星石は自分のサイフを取り出した。
そしてその中から銀の硬貨2枚を掴み、僕に差し出してきた。
「…何で、おまえが俺におごるんだよ。俺は負けたんだから―――」
「……勝者は敗者にこそ、優しくあるべきです。だから受け取りやがれです」
そう言うが早いか、翠星石は僕の手をひっ捕まえて、無理やり150円を握らせた。
「お…!」
「せ…せっかくの翠星石の好意なんですから、ありがたく受け取りやがれです!」
「―――」

―――やっぱり、今日の翠星石はどこかおかしい。
普段ならこんなこと、絶対言うはずがない。翠星石にしてはあまりにも棘がなさすぎる。

「………そこまで言ってくれるなら、もらっとく。ありがとう、翠星石」
「…………う、うん…」
「………」

…どこまでも"らしくない"翠星石に不信感を抱きつつ、冷たいスポドリを乾いた身体に流し込んだ。

◇  ◇  ◇

「―――付き合ってくれて、ありがとうです」

近くにあった休憩用のベンチに座って、ポツリと、翠星石はそう言った。
「いや、僕も楽しかったし…ボロ負けだったけどな」
苦笑いを浮かべつつ、翠星石の隣に座る。
スポドリがいい感じに喉を潤してくれたおかげで、だいぶ疲れがトンだような気がする。

「……………ジュン…」
「なんだよ?」
「…その………」
呼んでおきながら、翠星石は言葉を探して黙ってしまった。
なので逆に、僕から翠星石に疑問符を投げかける。
「なぁ翠星石。今日のおまえ、ちょっと……なんていうか、いつもと違わないか?」
「……………」
ずっと聞きたかったことを尋ねると、翠星石は何も言わずに俯いてしまった。
「まぁ。いつもみたいにギャーギャー言われない分、ラクだけどさ―――――」

「―――翠星石は、後悔したくないんです」
「は…?」
「………だから、最後。最後くらいは…ジュンに、嘘をつかないように喋りたかったんです」
「……………?」
分からないけれど、翠星石の言葉は、重い。
まるで昼間の真紅のように―――いや、まったく、同じだ。

「ジュンに褒められるのが嬉しかったです。でも、そんなの悟られたくなかったんです。
 だから、ジュンのしてくれること、かけてくれる言葉………そのぜんぶに、翠星石は、棘を刺してきたです…」
声に、涙が混じり出した。
それでも、声は、止まない。
「でも…それは、普段の自分をラクにしてきた代わりに…………欲しかったモノを、遠ざけた、です…」
「………」

「―――――だから、せめて………最後は、最後くらいは、素直に、なりたかった……!」

慟哭めいた、悲痛の声。
僕はただ、何も言わないまま、聞いていた。

「…でも……素直になることは、翠星石には難しかったです…。
 ただ………それでも、最初からこうしていれば……欲しかったモノも、もしかしたら……」
「翠星石…」
その言葉に、今日の様子がおかしかった理由を見つけた。
あれは―――素直になれない翠星石が、素直になろうと努力した、その結果だったんだ。
「…いびつだったかもしれねーですけど、けっこう、悪くなかったですよ?
 ちょっと素直になっただけで…ジュンの、怒ったような顔、あんまり見なくてよかったですから…」
「………」
「……………ぐす…やだ、泣くつもりなんか、ねーです……最後に、ひとつだけ……言うんです…」

そう言って、翠星石は僕の手を、しっかりと握って。
色の違えた瞳を、涙に飾られた顔を向けて、彼女は告げた。

「――翠星石は、ジュンのことが、大好きです……。…どうしても、言っておきたかった。本当に…大好きです」
「―――――」

その、予想外も予想外の言葉に、言葉が止まる。
これは過去形でない、告白。僕が何かを言わなくちゃいけない、翠星石の告白。

「―――でも、もう遅いんです」
と、翠星石は僕の言葉を待たず、自分から言葉を紡ぎ出した。
「ジュンの隣に居るべきなのは、翠星石じゃないんです。翠星石は………それを、知ってるです」
「え………」
「でも。翠星石は、この告白をムダだったなんて思わないです」
握る手に、力が込められる。
その瞳はもう、泣いていなかった。
「素直になろうとする心、好きだって言える勇気………それを、ちゃんと感じられたから」
「―――――」
「だから…翠星石は、後悔しないです。ジュンを好きでいてよかったって、ちゃんと言えるです」


―――涙の跡を刻んだその笑顔は、今までで、いちばん、綺麗だった。


「………もう一度、みんなと温泉に行ってくるです」
ふっと、手の力が抜けて、翠星石は席を立つ。

―――その背中に、声をかけた。

「……………なんですか?」
「その……ありがとう………」
「?」
「すごく、大切なモノ………おまえから、もらった気がする」
「………そうですか。それなら、それをずっと大切にするですよ。そうでないと許さねーですからね」
「わかった…ありがとう、翠星石」
「…うん………」
無理な笑顔を見せて/寂しい表情を浮かべて、翠星石は立ち去った。

遠ざかる後姿を、しばらく、茫然と見つめていた。
………その影が、見えなくなってからも、ずっと。


◇  ◇  ◇


「―――お帰り。翠星石は、なんて?」
「あぁ………2階に卓球台があって、その相手役に駆り出されただけ」
いつの間にか敷かれていた布団の上に寝転がっていた笹塚に、そう返す。
「ふぅん……てっきり"告られた"とか、そういうことだと思ってたんだけどな」
「―――――バカ。あの翠星石の態度を見てて、そんなふうに思うか?フツー」
何でもないように隠し事を言い当てる笹塚に、軽く笑って誤魔化す。

「思うよ」
「はは……………はぁ?」
起伏のない笹塚の声色に、ごまかし笑いを止める。
「翠星石の好きな人なんて、一目瞭然じゃないか。みんな気付いてると思うよ」
「………なんで」
「口は悪い。たまに手も出す。だから、嫌われてるって思ってた?」
「……………嫌われてる、とまでは言わないけど…」
僕の力ない答えに、やれやれ、といった様子で笹塚が身体を起こした。
「じゃあ―――翠星石に優しくしてもらった記憶は、ないの?」
「―――ぁ」
「……………『気付けなかったのも無理はない』なんて言わない。翠星石はいつだって、棘の裏に想いを抱いていたんだから」
「……………」

翠星石は、素直になれなかった自分を責めていた。
だけど笹塚は―――はっきりと、僕を、責めている。

「…まぁ、過ぎたことだから…もう遅いけどな。ただ、そういうことに気付いてあげられなかったってことは忘れるなよ」
「………僕は…」
「―――ちょっと、出かけてくる。運動したんだし、もう一回風呂行ってくれば?」
それだけ言い残して、笹塚はさっさとどこかに行ってしまった。

「……………………」

――かけておいたタオルをひったくるように取って、ひとり、浴場へと向かった。


◇  ◇  ◇


―――頭も身体もめいっぱい洗って、温かなお湯に浸かる。


翠星石の"ホントウ"に気付けなかった僕。
あぁ―――真紅も、そうだった。
下僕と呼ばれてコキ使われた日々の中には、確かに優しさもあったじゃないか。

真紅と翠星石。
それぞれの想いに、僕は愚かなまでに鈍かった。そして笹塚は、それを責めた。

だけど。
気付けって、どういうことなんだ?
"僕のこと好きなの?"なんて言えばよかったのか?違うよな?

なにより、そんなこと―――――怖くて、とても言えやしないじゃないか。

そう言って、拒絶されるのが怖い。
そう言って、嘲笑われるのが怖い。
そう言って―――――。

「………ぁ」

――"コワイ"。
すべてはそれだ。

真紅と翠星石は、想いをさらけ出すことが怖かった/僕に拒絶されることを恐れたから。
僕は気付けなかったし、気付こうともしなかっただろう/その想いが、誤解であることを怖がって。


人の心に潜む"怖れ"が、大切なものへの想いを妨害する。
その"怖れ"に屈してしまったら、その掌にはなにも残らない。失ってしまうんだ。


「………失いたくない」


まだ分からない/もしかしたら手遅れなのかもしれない。
一度繋いだ手/今は離れてしまった手。


―――――僕は。


「聞かなきゃ、いけない」


◇  ◇  ◇


「―――あはぁ、いいわぁ…そこ………」
「…ん………じょうず…だわ……ふぅ…」
「………うー……」
「……………」


覚悟を決めて風呂から出たところで、僕と薔薇水晶に課せられていた"命令"を思い出した。
部屋に戻って携帯を見てみると―――。

『すぐに部屋まで来なさぁい。マッサージの約束、忘れてないでしょうねぇ?』

「……………………忘れてねーよ。オマエはどうなんだ?水銀燈…」

呟いて、誰もいない部屋を後にした。


―――――そして今、こうして水銀燈の肩やら背中やらをマッサージしている。ちなみに相棒の薔薇水晶は雪華綺晶をマッサージ。
「♪………」
「………」
人の気も知らないで、ぐったりとされるがままの水銀燈。
その…浴衣姿で、ほんのりと温まった身体は………正直、ヤバイ。
シャンプーの香りとか、少し濡れた感じの髪とか―――まぁ、それは他の2人も同じワケで。
「ふぅ………♪」

「―――……水銀燈…」
余計な感情を振り払って、薔薇水晶たちに聞こえないように耳打ちする。
「!?」
「……………あ…あとで……話が、したいんだ」
「……………………」
欲望、次に恐怖に掴まれた口をなんとか開けて、そう伝える。
すると水銀燈は瞳を閉じた。そして何も話そうとはしないままで。

「………水銀燈…?」
「―――――………ごめんなさい、ジュン。今日は………疲れたの。だから、明日………聞くわ」
「え……」
「………さて、もういいわぁ。ありがとねぇ」

どこか、急ぐように言って、うつ伏せだった水銀燈はゆっくりと起き上がる。
「おやすみなさぁい、ジュン。また………明日ねぇ」

にこり、と微笑って告げたその"オヤスミナサイ"は―――――まるで。


"デテイッテクレ"と、言っているような気が、して。


「………わかった。………おやすみ、みんな」

雪華綺晶と薔薇水晶からの、気の抜けた"おやすみなさい"を背中に聞きながら、僕は部屋を後にした。


◇  ◇  ◇


真っ暗な部屋に戻って、ツメタイ布団の中で水銀燈の言葉を繰り返していると、誰かが部屋に入ってきた。
月明かりは弱くて、声を聞かなくては誰だかわからない。
「……………笹塚、か?」
「……………………」
人影は、答えない。
ただ、隣の布団にもぞもぞと潜り込む音だけが聞こえた。
「………誰、だ?」
「……………」
返事はない。
―――カチ、カチ、カチ、という時計の音だけが、灰暗い部屋に響く。
「……………笹塚じゃないのか?」
「………」
「誰だよ?…電気、点けるぞ…」

「―――………そのままに、してくれ」

温まりだした布団から抜け出ようとすると、ようやく声が返ってきた。
………それはやっぱり、笹塚の声だった/ただ、とても、悲しみにくれているような、声。

「………どこに行ってたんだ?」
「…外」
「外で、何してたんだ?」
「……柏葉と、会ってた」
――笹塚の口から出てきた意外な人物の名に、思わず声を詰まらせる。
「か、柏葉……?なんで…」

「……………決まってるだろ…告る為、だよ…」
「―――――!」

ぐっと、息を呑む/それは、信じられない言葉だったから。

「………断られたよ。気持ちのいいくらいにスッキリと、さ」
「さ、さ………」
「でも、後悔しない………つもりだ。このもやもやを腐らせることなく、ぜんぶ吐き出せたんだから」
「………!」
「これが最後だって言い聞かせて。………俺からすれば、本当にありがたいきっかけだったよ。この旅行はさ」
震える笹塚の声に、少し、色が戻ってきた。
………笹塚は…どんな想いで、僕に話しているんだろう。

「まぁ、結果はダメだったけどさ………縁がなかったってことで、あきらめるしかない」
「………」
「それでも…吹っ切れたからさ。それでいいんだ。得たものは、確かにあったんだから」
「得たもの…?」
「……人を好きになることと、一握りの勇気を持つことの…大切さ、ってとこかな」
「……………………」
「はは、我ながらクサイ台詞だね………おやすみ。また、明日な」

それきり、真っ暗な部屋に声が響くことはなかった。
かわりに、静かな寝息が聞こえるだけ。


「………ホント、なんていうか…」

卒業旅行と銘打ったこの一泊二日。
真紅、翠星石、笹塚は―――――"怖れ"に勝って、怯えていた自分と決別した。
………それは、震える自分からの"卒業"とも、言えるのかもしれない。

「……………僕は…」

彼女の真意を知りたい。
まだ間に合うのなら、失いたくない。
"怖れ"を畏れたくない。僕は―――――"決別"したい。そしてその手で、一度離れた手を、もう一度、繋ぎたい。

「………逃げない…」

すべては、明日。
水銀燈からの呼びかけを待って、僕は、聞く。

「………ありがとう。真紅、翠星石、笹塚…」

情けない話だけど。
"怖れ"に勝つことの大切さなんて、僕ひとりじゃ気付けなかったに違いない。

だから―――――本当に、ありがとう。

その感謝を胸に深く刻み込み、僕は静かに眠りについた。

◇  ◇  ◇

「―――くしゅん!」
「寒いの?翠星石」
「ううん、そんなんじゃねーです…ただのクシャミですよ」
「そっか………ねぇ、そっちに行っていい?」
「へっ?い、いっしょに寝るつもりですかぁ?」
「うん。―――へへ、あったかい………」
「あ、あまえんぼうですねぇ………どうしたです?いきなり」

「―――――たくさん泣いたでしょ?」
「…!?」
「水銀燈が心配してたよ?マッサージの約束すっぽかして、ひとりでどこかに行っちゃってさ」
「あ………」
「大丈夫。ちゃんと誤魔化したから心配しないで………ねぇ、翠星石?」
「………なんですか…?」
「―――後悔、しないですみそう?」
「……………まったくしない、とは…言えねーです……やっぱり、ちょっとは、くやしいです………」
「そうだよね…それでいいと思うよ、僕は」
「…蒼星、石……」
「………僕の胸じゃ狭いけど………よければ、貸してあげる」
「……………っ…ぅ、ぁ………ひぐっ………………ぅわぁぁん…ジュンっ………!」
「………」

「―――――ジュン。必ずあのコと………幸せになることね。そうでなければ、許さないのだわ………」


◇  ◇  ◇


―――――眠い。けど、寒い。
「……………ぅ……………………ん…」
重いまぶたを、そっと開ける。
そばにあった眼鏡をかけて、それでもぼやける視界に時計を捉える。
「………ろくじ……?」
部屋はまだ、かなり薄暗い。外は明け方―――というか、これはまるで、夜になりそこなった夜みたいだ。
「……寝よ…う?」
反射的に出した答えに、自分で疑いをかける。

メシの時間は7時30分ぐらいから。
…確かに、今から1時間ちょっとは眠れる。
だけど、果たしてきちんと起きれるかどうか。
そんな心配を抱えるのなら、いっそ今から起きていればいいんじゃないのか。

「……………」
少し考えて、僕は起きるという選択肢を選んだ。

――ということで。まずはしっかりと目を覚ますために、朝風呂に入ることにした。


◇  ◇  ◇


朝の狙いはもちろん露天風呂。
ただいきなり外に出るのは寒いので、一度屋内のお湯に浸かってから外に出た。

「―――――………気持ちいい…」
小さく、ため息のようにそう漏らす。
空はまだ中途半端に暗いけれど、それが逆に、すごく新鮮だった。
夜から朝に移り変わる頃―――僕には、そうそう見られるモノじゃない。

「…………………あ、れ?」
空を仰ぐのを止めて、視線を戻す。
と―――奥に、なにか、階段みたいなモノがあるのに気がついた。
昨日は夜だったせいで、うまく見えなかったのかもしれない。
「………何があるんだろう」
純粋な好奇心に駆られて、僕は温まった身体に、上手にタオルを巻き付ける。
そして慎重かつ素早く、奥の石でできた階段を下り始めた。


「―――おー…ここも、露天風呂なんだ…」
中途半端な石段を下り終えたところに、もうもうと湯気の立つ温泉があった。
上にある露天風呂に比べれば少し小さいけれど、特に気にならない。
「どうしてこんなところにあるのかな…まぁ、いいや。入ろう」
朝早く起きたおかげで、貸し切りで露天風呂を楽しむことができる。
たまには早起きも悪くないな、なんて考えながら腰のタオルを外し、お湯にしっかりと浸かる。

「―――――ふぅ…」
全身、脱力。本当に気持ちがいい―――――。



「―――――………ジュ、ン…?」
「っ!!?」
空耳か、と一瞬疑って、振り向く。


眼鏡のない、湯気の立ち込めるおぼろげな世界に居たのは、紛れもなく―――――水銀燈、だった。


◇  ◇  ◇


白いバスタオルで全身を包んだ水銀燈は、僕を見て、走り去ろうとした。
「ッ………」
待って、と叫ぼうとした声は、出なかった。
それは理性からじゃなく、予期しなかった遭遇にボクが怯えていたから。

と。

―――走り去る背中が、ピタ、と止まった。
   そして、こっちに…静かに静かに近付いてくる。

「…ここ、何かと思ったらぁ………混浴の温泉、ってことだったのねぇ…」
「………入れよ。風邪、引くから………」
「…ありがとう」

僕は目の前を流れる川に視線を固定する。
お湯は静かに波紋を立てて、来客を出迎える。
僕と気まずい距離を開けて、水銀燈は静かに座る。

「………ここで聞いていいか?」
沈黙を決めたくはなかったから、すぐに切り出す。邪魔者―――"怖れ"は、昨日の夜に追い払った。
「…うん」
水銀燈は、小さく了承した。


「……………いや。先に言うことが、ある」
「………な、なに…?」

どうして水銀燈に話を聞きたいのか―――その理由を、伝えなくちゃいけない。

「―――――………僕は、今でも、水銀燈が好きなんだ」
「―――――」
「別れてくれって言われて、悩んだ。どうしてなんだろうって、考えた。
 そうやって考えて考えて………それで、気付いた」

好きでもない人のことなんて、構うはずがない。
だから、あれだけ悩んだってことは―――それだけ、水銀燈が好きなんだっていう、証。

「別れてくれって言われたのは分かってる。
 だけどあのとき、オマエは僕に"私のことが好きなら"って言ったよな?
 ……………あの気持ちは今でも変わらないんだ。だから、言うよ」

ぐっと、掌を握り締めて、告げる。


「僕は、オマエが―――――水銀燈が、好きなんだ」


"だから………できるなら、別れてくれって言った理由を、教えてほしい"
そう付け加えて、僕はただ、川を眺める。

不思議と、胸に昂りはない。この川のように穏やかで。
きっと、この後、何を言われても―――僕は涙を流すんだろう。
………そんな気が、した。


◇  ◇  ◇


「――――――――――ごめんなさい………ごめん、なさい…!」
その搾り出すような、切ない声色が、左耳に痛い。
「―――………謝らなくて、いいよ」
その拒絶を、僕は静かに受け止めた。
「たくさん………たくさん、苦しめちゃったね………ごめんね…!」
両手で顔を覆う彼女の叫びが、遠い。
「いいんだ……………僕も、覚悟はできてたから…」
呟いて、視界が涙で汚れた。

と―――――温かな水面に、激しい波紋が起こる。
      気まずい距離をかき消して、水銀燈が、ジュンの肩に、すがり付く。

「―――ちがう……ちがうの………!」
「………水銀、燈?」
「ずっと待ってた!!別れてから、ずっと………ずっと、その言葉を待ってた!!」
「え…」
「私、は…っ。私は………―――――」

………ぐ、るん。

「え―――」
「―――!?」

僕の視界が、落ちる。
どこにいるのか、わからなくなる、しろく、なる―――――。


◇  ◇  ◇


「ぅ…………………ぅ………ぁ…」
「―――ジュン!」
「っ、あ………れ…?」

くらくらするアタマと、チカチカする視界。
それが治まってから、僕は状況を把握しようとする。

「………どう、したんだ…?」
「…たぶん、のぼせたんじゃないかしらぁ………ずっとうわ言を言ってたわよぉ」

水銀燈の声が、上から落ちてくる。
その向こうにある空は、白くて蒼い。
背中はひんやりとしている、けれど頭は、冷たくも痛くもない。

「……気ぃ、失ったのか…ごめん」
「いいのよぉ。それより大事にならなくて、よかった…」

赤い瞳は、泣いていた。
僕はぼやけたアタマで、精一杯、話をしようとする。

「………水銀燈」
「…ごめんなさい。さっきはあんなに取り乱しちゃって………」
「………」
「―――薔薇水晶とね…どちらがアナタに選ばれるかって、勝負……してたの」
「薔薇水晶と、勝負…?」
「私はあのコの姉でありながら、あのコを無視して、アナタと付き合い始めたの。
 ………だから、一度アナタと別れた。そして……どっちが、アナタと結ばれるかって…」
「…だから、別れてって………」
「―――でも、それは体のいい言い訳よ………私は、ジュンを選べなかった。
 ジュンと薔薇水晶を天秤にかけて、私は………アナタを掲げてしまったの」
「………」
「あのコとの勝負はね…自分から"好きだ"って言わないことが、約束事だったの。
 自分から行動して、その末にジュンがどちらを選んでくれるかって………だから、好きな人のことも、一切言わなかった」
「…そっか………」
「私…嫌な女よね………最低、だよね……!」
「水銀燈…」
「ジュンをいっぱい苦しめた!!それでも…それでも、また、ジュンに好かれたいって…ずっと思ってた…!
 妹を優先したくせに、そんなことを考えてて……私、わたし………!」

「もう、いい」
「――――!」

「僕は…信じてたから、苦しんでない」
「ぇ…?」
「オマエが僕に言ってくれた言葉。忘れずに、信じてた」


『―――――ずっと好きでいるわ。何があっても、それだけは、変わらない』


「………覚えてて…くれた、の……?」
「覚えてたんじゃない。信じてた。だから………苦しんでない」
「ジュン………でも、でも―――」
「いいんだ」

手を伸ばす。
綺麗に汚れた頬に、そっと、触れる。

「いいから、そういうことにしておいて……………水銀燈は悪くないから、苦しまなくていいんだ」
「ッ………ジュン…!」

「………好きです。だから、僕と付き合ってください。…ずっと好きでいると、誓うから」
「…ジュン………!…もう、ホント、に……おばかさん………なん、だからぁ………ひぐ……ぅわああぁぁん!」

胸にうずまる銀色。
静かな時間に響く喚声。


―――それは。
   大切なものと、再び手を繋いだ瞬間だった―――。


◇  ◇  ◇


「―――――この旅行が終わったら、離れ離れまですぐなんだよな…」
「そうねぇ………でも、縁が切れちゃうワケじゃないでしょぉ?」
「そうだけどさ、やっぱり会う機会は少なくなるっつーか」
「………しょうがないわよぉ。会おうと思えば会えるんだし、ねぇ?」
「……………」

ぎゅ、と。
お湯の中で、もっと温かな手を握る。

「オマエは…もう、離れないよな?」
「………ええ。何があっても、ずっといっしょよ」
「よかった」
「…ふふ」

小さく、笑って。
僕らは、ちいさなちいさなキスを交わした。



卒業を迎えても、僕らはいっしょに居ようと願う。
別れの上に重ねたその約束は、破られない誓いとして、僕らを結ぶ。


この繋いだ手を、離さない。
―――微笑む彼女の温もりに、僕はそう、折れることのない誓いを立てた。



FIN.