『色(ゆめ)』





「おはよう、翡翠ちゃん。今日もがんばろうね」
「おはようございます、姉さん。そうですね、今日も精一杯…」
「精一杯、かぁ。んふふ、なるほどねぇ〜。それで今から志貴さんを起こしに行くんだ?」
「っ………!」
「あはー。顔が真っ赤よ?翡翠ちゃん。さて、それじゃわたしは朝の仕事に取り掛かるね」
「…もう、姉さん………」



朝日が差し込み始めたばかりの廊下を、ゆっくり静かに歩く。
努めて、冷静に。心が躍っているというこの事実を、一生懸命に押さえ込む。

…そうして、すぐに辿り着く。
この薄いドアの向こうにいる、主を想い………静かに容姿を正し、控えめにノックを2つ。
「失礼します、志貴さま………」

………これは、本当に失礼な行為。
使用人としてあるまじき無礼ではあるが、抑えられない。
そして当然のように返事は無い。それを確認して、私は薄いドアをゆっくりと開ける。


「―――あれ?貴女………翡翠、だっけ?おはよー♪」
「―――――」
思わず、言葉を無くした。それは彼女が居たからではない。

―――その光景が、あまりにも幻想的で、美しくて。

窓辺に立つ彼女は"太陽を忌み嫌う種族(ヴァンパイア)"………だと、そう聞いている。

でも、そうだとしたら。
この柔らかい光は、彼女以外の誰に似合うのだろう。

まるでこの空間、この瞬間はすべて、彼女の為にあるのだと―――そう、思わせる程。

「―――おはようございます、アルクェイドさま」
刹那ばかり飛んでいた意識を取り戻し、冷静に挨拶をする。

「………ゆうべは おたのしみ でしたね」
「へ?あ、あはは……………やっぱりバレてたんだ」
バツの悪そうに笑うアルクェイドさまの笑顔は、やはり素敵だった。
「はい、申し訳ありません………ですが、お気をつけください。秋葉さまに知られるとなると………」
「妹?そんなのだいじょーぶだよ、わたし強いもん」
へへん、と胸を張るアルクェイドさまに、私は首を横に振って答える。

「―――いえ、その……アルクェイドさまではなくて………」
「へ?―――あー、そういうコトかぁ。それはそうだね、うん」
私の言わんとしていることを理解したアルクェイドさまは、少ししょげてしまった。
志貴のがお兄さんなのにね、なんて、小さく不満そうにそう呟く。

それにしても―――こうして会話が弾んでいることに、今更ながら私は驚いた。
それはアルクェイドさまの人柄の成せる業………というだけではないのかもしれない。

「―――それよりさ、翡翠。こんなに早く志貴の部屋に来たのにも理由があるんでしょ?」
「―――――」

不意に、聞かれてしまった。
頬に上がる熱と詰まる言葉。
「わぁ、真っ赤。翡翠って正直ねー。あ、言わなくていいよ?どうせ理由なんてひとつしかないもの」
言って、アルクェイドさまは微笑みながらベッドを指差す。

………頷くしかなかった。

「ニャー!翡翠ってばだーいたーん!んふふ、大人しそうに見えて意外とやるニャー!朝から―――」
「―――あ、あ、アルクェイドさまっ!?」
どこか姉さんに似ている、何かよからぬ方向に持っていこうとしているアルクェイドさまに、思わず声を荒げてしまう。
「んー?それじゃーなにしに来たのニャ?こんなに朝早くから起きちゃくれニャいよ?志貴は」
「……………そ、それは……」
他人に言うのはどうしてもはばかられてしまう。

―――――志貴さまの寝顔を眺めて、そのお目覚めを待つのが楽しみ、なんて。

「…志貴の寝顔でも見に来たんじゃニャいのか?」
「―――――っ!」
その一言に、激しく動揺してしまう。
どうして、こう。人の心を見透かすような―――。

「にゃはは、照れるでない………その気持ちはわかるもの、笑ったりしないわよ」
「…え?」
そこで、アルクェイドさまの声が急に優しくなった。

「だって本当に綺麗だもの、志貴の寝顔って。怖いくらいに静かで……………見惚れちゃうよね」

―――そう微笑んだアルクェイドさまも、また、本当に綺麗で。

「………はい。ですから、私はここでお目覚めをお待ちしています」
「………そう。それじゃ、今日はわたしもここで待とうかな。志貴が起きるのを」
「………」


そうして流れた時間は。
例えようもないほどに、静かで、優しく、温かいモノだった。


◇  ◇  ◇


「―――――あら、志貴さん。おはようございます」
「おはよう、琥珀さん………」

挨拶を交わす志貴さんの顔色は、どこか疲れているみたい。軽く尋ねてみましょう。

「どうしたんですか?朝からお疲れですねー」
「………いや、まぁ……………いろいろあったんです。出来れば聞かないでください…」

―――ははぁ、これはいわゆる―――――いやいや、これは黙っておくべきですねぇ。
秋葉さまもあちらで聞き耳たててらっしゃいますし、言わぬが華ということで。

「はぁー、そうですかぁ。それじゃ、おクスリでも―――」
「い、いやいや!!それは結構ですから、朝メシお願いしますっ!」

あらら、逃げちゃいました。うーん、マトモなおクスリお渡しするつもりだったのに………。
それじゃ、せめて朝ご飯でたっぷり栄養をつけてあげましょうか。


「―――♪」


―――こうして『楽しい』と思えるようになったのは。
―――やはり、志貴さんが此処に来てくれてから。
―――こんな、なんでもない朝食ひとつで。
―――あんなにも、笑顔をくれる。


「―――志貴さーん。できましたよー」

はーい!それじゃ秋葉、あとで!なんて声が居間の方から響いてきました。
……………またやりこめられていたんでしょうねぇ、きっと。


◇  ◇  ◇


「………これ以上待つワケにもいかないわね、もう……………」

時計を思わず睨みつけてしまう。それで時間が止まればと考えてしまうあたり、まだ私は子供だ。

「………それというのも、全部兄さんのせいですよっ」

今頃、朝食を頬張っている兄に対して恨み言を吐く。でも、それも無駄な独り言。
あぁ―――これ以上は危ない。急いで出かけなくては。

「秋葉さま、どうぞ」
「ありがとう、翡翠。それじゃ………―――――」

ギィ、と重厚な玄関を、翡翠が静かに開ける。


と。


「―――なんで貴女がこんな時間にこんなところにいるんですかっ、このあーぱー吸血鬼っ!!」
「そんなのちょっと考えればわかるでしょー?それより、不意打ちの代償は高くつくわよ?シエル!」


―――見覚えのある二人が、庭中を駆け巡っていた。

「―――――あの二人………ふふふ、いい度胸じゃないの………」
「あ、秋葉さまっ…!!どうか―――」

轟、と。
耳に疾走るのは、焔血の音。

「躾が必要なようね………ッ!!!」





真祖、埋葬機関、紅赤朱。
おおよそ考えられる中で最悪の展開。

「―――――ん?なんか外が騒がしいけど……………う…すっごいイヤな予感が…する…」

その最大の原因たる遠野志貴は、実にのんびりとした朝食を食べ終えた頃だった。


◇  ◇  ◇


「朝から人の屋敷に不法侵入とは、貴女たちに常識というものはないのですかっ!?」
「私は教会の代行者として、そこの吸血鬼を塵にするために来たんですっ!!」
「はん、不死を無くした貴女なんてただのカレーバカじゃない。死にたくなければ帰りなさい、シエル」
「ッ…いい度胸ですね、このあーぱー!もう、手加減できませんからねっ…!!」
「――きゃぁ!!ッ………やるじゃない。それじゃ、ちょっと本気出すわよ!」
「少しは人の話を聞きなさい!!………いえ、この二人にそんな悠長なことは言ってられないわね…。
 いいわ。お二人とも、全て奪い尽くして差し上げます……………ッ!!」


「――…アレを、俺が止めるの?」
「あはー。アレを止められるのは、志貴さんだけですよー」
「私も、そう思います…が……危険です、志貴さま…」

琥珀さんは笑って、翡翠は不安げに。
ただ、そう言われても………実際、俺はただの人間なんだけど。
あんなトンデモ人間………じゃないヤツもひとりいるけど、とにかく、どう止めたらいいのやら。
ハッキリ言って、夏の虫でもあの火は避けると思う。

「………まぁ、行くしかないか」

右手に七ツ夜を構え、人外の戦場へと歩みを進めることにした。

「…まったく、困ったもんだ」





―――ドクン。
熱い血が、全身に送られる。

―――ドクン。
右手のナイフが、俺の手と同化する感覚。

―――ドクン。
そう、今だけは。

―――ドクン。
埋もれた血を、解放しよう。

―――――ドクン。
俺の名前は、七夜志貴。

極限まで暗殺を追求した、退魔の一族―――その、末裔。


さて、三つの魔を退けるか。
………いい加減、学校に行かないとマズイしな。



ゆらり。ぐらり。
思考に意識を委ねず、血にすべてを委ねる。

―――右。アルクェイドの爪。
   無造作に七ツ夜を右に払う。斬りつけるのではなく、弾くことを目的とした払いの撃。

―――キィンッと澄んだ音。何か他に音がしたが、聞こえない。

「ふッ!」

そうして次に備えるべく、一歩踏み込んでアルクェイドを弾き飛ばす。

「かはッ!?」
「次は―――」

―――上。アルクェイドを狙った、シエルの黒鍵が二本。それも時間差、か。
   恐らく一本は弾くことが出来るだろう。だが―――いや、考える暇はない。
   上を向き、迎え撃つ―――。

「―――させないッ!!」

――前に、それは掻き消えた。

「これは…」

…檻髪、か。
さすがは秋葉、見事なモノだ。兄は嬉しいぞ。


「―――――さぁ、もうお開きだ。これ以上は俺の自我が収まらない…退いてくれ」


―――いけない。俺の意識が遠くなりそうだ。
―――静まれ、七夜。俺は。

「志貴ッ!」
「遠野くんっ!」
「兄さんっ!」

―――そう、俺は遠野志貴だ。


「………ちゃーんと反省すること。いいな、三人とも」





「―――無事に終わったみたい、ね」
「ええ………志貴さま、ご無事でよかった……!」
「本当に止めに入るなんて…志貴さんは命が惜しくないのかしら?」
「…それは違うと思うわ、姉さ―――!? し、志貴さまっ!?」
「志貴―――…翡翠ちゃん、落ち着いて。大丈夫だから、志貴さんのお部屋をお願い」
「は、はいっ!」


◇  ◇  ◇


―――――あ、れ?

「――――――」

耳に入る鋭い声…あきは……だろうか。
その声に、自分の瞼が閉じているのに気付いて、ゆっくりと目を開ける。

―――見慣れた天井、慣れた感触。ここは、俺の部屋の、ベッドの上。

「志貴!気がついた!?」
「遠野くんっ、大丈夫ですか!?」
「兄さんっ…具合はいかがですか?」

あぁ、大丈夫。だからそんなに心配そうな顔するなよ、どうせいつもの貧血だから―――――。

「―――――あ、れ?ごめ、ん………俺、寝る…か、ら………おやす、み―――」

そこで、俺の視界はブラックアウトした―――。



「ちょっと、志貴っ!?」
「と、遠野くん!?」
「兄さんっ!!」
「…し、志貴……さま………?」

「―――……ははぁ、志貴さん………さては、寝不足、でしょうねぇ?」
「「「「え?」」」」
「身に覚えがあるんじゃないですかぁ?この中のだ・れ・か・さ・ん・は。ふふふ…」
「「「―――――――」」」

じーっ、と。刺すような視線がひとりに集中する。
………ニャー。とかいう場違いな声がしたのは、たぶん気のせいでしょう。

「…あはー。冗談ですよ、みなさん。
 ちょっと失礼しますね………うん、志貴さんは大丈夫です。このまま安静にしてさしあげましょうね」

脈拍を測ってそう告げると、みなさま安堵の表情を浮かべてため息をつきました。
…よっぽど心配だったんですねぇ。

「よかったぁ…志貴ぃ、ゴメンね」
「遠野くん……迷惑かけてごめんなさい。今度、お詫びしますから」
「…シエル、お詫びってまさかメシアンに連れて行くんじゃないでしょうね?」
「ち、違いますっ!それもいいですけど、もっとちゃんとしたお詫びをします!」

「………お二人とも。騒がれるようでしたらお外でどうぞ」

アルクェイドさんとシエルさんの痴話喧嘩を、秋葉さまがバシっと制しました。
この静かな迫力は、さすが遠野家のご当主だと思わず感心してしまいそう。

「…ごめん、妹」
「………すみません、秋葉さん」
「まったく………本来なら問答無用で出て行って頂くというのに。
 ………これ以上騒がないとおっしゃるのなら、このまま此処に居ても構いませんよ」
「「え?」」
「私たちがいがみ合うのは、兄さんの本意ではないでしょうから………それだけです」



「――――――――」



「翡翠ちゃん。わたし、少し席を外すから………ちょっとお願いね」
「え?あ、はい…姉さん」
翡翠ちゃんにそっと耳打ちをして、音を立てないようにドアを開けて、静かに去る。


―――――ドアを閉める刹那、僅かに見えた光景は―――――。


◇  ◇  ◇


―――アルクェイドさん。
―――シエルさん。
―――秋葉さま。

それぞれが抱えている事情というのは、どれも複雑すぎるほどに複雑。

―――だから、分からない。

相容れるはずのない三つの色。
反発しあって当然の三つの光。
水と油、いやそれ以上に混ざることのないはずの三つの水流。

それが、どうして。
それに『遠野志貴』という、透明な雫が零れるだけで。

『志貴の寝顔って、いつ見ても不思議ね』
『そうですね………。本当に生きてるのか、なんて心配になってしまいます』
『うん………いいなぁー、妹。いっつも志貴といっしょでさ」
『べ、別にいつもってワケでは………!それでしたら、アルクェイドさんだって―――――』


―――あんなにも、穏やかな光景になるのだろう。



それだけじゃない。
彼は混ぜるだけではなく、与えることもした。

八年前。
突然彼を失った時に、自分の色をも失った翡翠(いもうと)。

その彼女に、彼は色を与えた。昔とは少し違う、新しい色(ゆめ)を。
だから、翡翠は微笑むことが出来る。それは心からの、偽りのない己の感情。


そしてまた、彼は与えてくれた。


―――――色を棄てた人形にすら―――――。



「―――志貴。貴方は、本当に不思議………」

くるり、しゅるり/すっかりくたびれた、白のリボン。


それを、こんなにも綺麗に愛しいモノに見せてしまうのだから―――――。



◇  ◇  ◇



白色の吸血姫。
蒼色の代行者。
朱色の混血者。
過去に色を失った、白の少女。
過去に色を棄てた、黒の少女。


そこに、透明な雫が一筋。


すると、不思議なことに。
混ざり合うはずのない色が、次第に溶け合って。


静かに生まれ、たゆたうそれは。
………限りなく穏やかで幻想的な、虹色の湖面―――――。



『色(ゆめ)』了.