日常を ただ思う

この幸福を ただ想う




『志』





朝夕の風は微かな冷たさをはらんでいるものの、真昼の風はまだまだ熱い。
それでも、それは決して嫌なものではない。
太陽を遮る木陰のお陰で、実にいい暖かさを演出してくれるから。

喧騒など無縁。まるで、隔離されたかのように静か。
木々の葉が擦れる音だけが、この空間を成す。
まるで映画や漫画のような、作為的な世界でしかあり得ないような、そんな空間。

なんて、いい気持ち。心が芯から落ち着いてくれる。

腰を下ろし、木々にもたれる。
けれど首がどうも痛い。仕方ないので、適当なスペースを見繕って寝転がる。







あぁ。
嘘みたいだ。
夢みたいだ。

アルクェイドとの騒がしい毎日も。
シエル先輩との学校での日常も。
秋葉のモノ言いたげな視線も。
翡翠の作ってくれる朝のお決まりも。
琥珀さんの手料理と笑顔も。
レンの擦り寄ってくる穏やかな時も。
シオンの冷静で穏やかな眼差しも。


―――――この、遠野の屋敷すらも。


すべてが まるで泡沫の夢のようで

たまらず 俺はこわくなって

思考が ヤミに クわれてしまいそうで



―――え?



『線』などミえないはずなのに ソラに ヒビが


まさかこれは

ニチジョウを/シアワセを

殺す為の、『線』?



ありエない。

でも その『線』は
いともカンタンに

トドいてしまいそうで/キれてしまいそうで


嘘だ。 / それはシンジツ。

あの日常は続くんだから。 /あのニチジョウなど、すぐにマクがオりる。

幸福はみんなが望んでいるんだから。 /あのシアワセなど、すぐにクズれサる。


俺は、生きて。 /オマエのシで。


日常を、幸福を、みんなと作るんだ。 /ニチジョウも、シアワセも、カナしみのコントンにシズむんだ。


黙れ。   /ワかっているんだろう?
うるさい。 /ダレよりも、シにチカいオマエなのだから。
耳障りだ。 /ほら、ミえるじゃないか。
消えろ。  /オマエをムカえる、レンゴクのチが。



―――ずぶり、ずぷり。

あぁ、堕ちる。でも、どこに?
虚無の襲来?孤独への誘い?


―――――これが、死?


嫌だ。
まだ死ねない。
俺にはまだ、猶予があるはずなんだ。


―――夢中で、手を伸ばす。


沈む中で、しっかりと。
日常を彩る、すべての大切なモノ。
幸福を描く、すべての大切な人たち。


お願いだから、どうかこの手を、掴んでくれ。
堕ち逝く前に、掴んでくれれば、まだ、先があるから。


白銀の月が、夜の幕を降ろしはじめた。
ふと、そんなことを感じたとき。俺は指先に、確かに、感じた。


あぁ――――――――俺は、待っていた。


さらば、死地の世界。
俺がそこへ赴くのは、まだ先の話だから。



さぁ、目を開けて―――――――。



◇  ◇  ◇


「―――――」
「―――――!」

目を開けた途端、名前を呼ばれ、誰かに抱きしめられた。ふわりと、優しく香るのは馴染みのそれ。
ただ子どもみたいに泣きじゃくる彼女に、俺は身体を預けた。





「…コホン」
誰かの咳払いのあと、俺はふと冷静になって考えてみる。
そして、こんな騒ぎに至る経緯を大雑把に説明してもらった。


まず俺がいないことに気づいたのは、翡翠だったらしい。
夕方になっても一向に俺が姿を現さないので、心配して俺の部屋まで出向いたが、誰もいない。
俺が外出する旨など聞いていなかった翡翠は、すぐに琥珀さんと秋葉に確認を取った。

二人の答えは当然、知らない、というもの。

ここで事態は急に慌ただしくなってしまった。
秋葉と翡翠は屋敷中を探し回って、琥珀さんは電話で思い当たる人すべてに連絡を取ったとか。

ちなみにこの時、シオンは野暮用で外出していたそうだ。
彼女がいたら、騒ぎはここまで大きくならなかっただろう………と考え、止める。
騒ぎの原因たる俺が偉そうにいうことではないから。

そして、秋葉たちが俺を見つけられなかったのも無理はない。
夜の帳が降りはじめた時刻の上に、俺がいたのは、このバカでかい敷地の、どこかもよくわからない林の中。
だから、責めるほうが酷というものだろう。

そして琥珀さんは本当に思い当たる人、すべてに連絡をとっていた。
有彦に始まり、アルクェイド、シエル先輩……と。
ここでなにがいけなかったかというと、琥珀さんの動揺しているのをそれぞれが気づいてしまったこと。
そして追求された琥珀さんも正直に白状…いや、事の次第を話したと言うわけだ。


そうして気がつけば。
アルクェイド、シエル先輩、有彦、さらにはシオンと、どこからかレンも加わって。
………俺を探すのにかなりの大騒ぎになった、という運びだそうだ。


ともかく。
これだけの大人数、しかも人外の者も加われば、俺を見つけ出すのも大した苦労ではなかっただろう。
そして実際に、俺は割とあっさり見つかった。

だが。

みんなが声をかけてくれたにも関わらず、俺は彫像のように――亡骸のように――眠り続けていたらしい。
呼吸はあるが、意識が戻ってこない。どれだけ呼んでも、なにをしても。


………それはまるで、終焉を迎える生命のようで。


"だから、ずっと見守るばかりで。それしかできなくて"
……涙目で彼女がそう言ってくれるのを、ただただ申し訳なく思う。


そうして俺の目覚めを待つこと十数分。
ふと、俺が呻きながら、手を伸ばしたらしい。

そしてそれを、みんなが、しっかりと掴んだと。


―――――あぁ、あの指先に触れた感覚は、それだったんだ。なんて、一人で納得する。


………ともかく、それで俺はようやく意識を取り戻したと、そういうコトらしい。



「最初はホントにビックリしたんだよ。あの琥珀が動揺してるんだもの、よほどの大事だと思ったら…」
「あの遠野くんが失踪、ですからね。確かにかなりの大事ですよ」
「ええ。気がついたらここまでスッ飛んできてたもの、わたし。本当に心配したんだからね………志貴」
「このあーぱーと行動までまったく同じなのは癪ですが…無事でなによりです、本当に………遠野くん」

「私がいない間に何事かと思ったら……まったく、もう少し周りのことを考えるべきですね、貴方は」
「ええ、そうねシオン。あとできっちり責任を追及しましょうか…この大騒ぎの、ね」
「秋葉、髪が紅いですよ………何はともあれ、貴方の身に何事もなくて良かったです、志貴…」
「………兄さん。これ以上心配させないでください。兄さんの身にこれ以上、なにかあったら……私は………」

「あはー、なにはともあれご無事で何よりです。ね、翡翠ちゃん」
「志貴さま………本当に、良かった……ご無事で、本当に………」
「……志貴さん。ダメですよ、もう。こんなに女の子を泣かせちゃ……私も、すごく心配しましたよ?」
「………志貴ちゃん…本当、に…えぐ、っ……良かった、本当に………」

「……………………」
使い魔のレンは言葉を持たない。けれど、ぎゅっと握り締めたその手から、想いは伝わってくる。


「―――――」
なんて言えばいいのか、わからない。
けれど、ちぐはぐな言葉でも、これだけは。


「―――――ごめんなさい。それと、本当にありがとう」


拙い言葉だけど。本当はもっと飾りたいけれど。
でも、俺には、こうとしか言えなくて。


………本当に、ありがとう…みんな。



「―――――さーて、それじゃ遠野くん。ちょーっとお話があるんだけどなー」
と。
急に、ある意味いちばん馴染みのある声がした。

「有彦……?」
「それでですね、麗しのお嬢様方には申し訳ないのですが…
 ほんの少しばかり、今回の騒ぎの原因であるこんの超のつく大馬鹿野郎と話がしたいのですが、よろしいですかね?」

ヘラヘラと、鼻の下を伸ばしつつ有彦はアルクェイドたちにそんなことを言った。
その妙な台詞に、俺も含め、みんなキョトンとした表情を浮かべる。

だが、すぐにみんなは笑って。

「志貴のお友達だよね?………うん、いいよ。でもあとでちゃんと返してね♪」
「乾くん、お手柔らかにお願いしますね。病人ということをお忘れなく」
「乾先輩、よろしくお願いします。手荒な真似だけはご遠慮くださいね」
「………どうやら、信用のある方のようですね。ならば、私は秋葉と同意見です」
「あはー、乾さん。そういうわけなので、よろしくお願いしますねー」
「………それでは、私たちは一旦下がりましょうか。皆様、どうぞ。お屋敷までご案内致します」
「……………………」

ぞろぞろと、翡翠の後について屋敷の方へと歩いて行ってしまった。
暗いくらい森に残されたのは、腐れ縁のヤロー二人だけ。


「ふぅ、やれやれ………なんのつもりだ?有彦」
「安心しろ。別に、大したコトじゃねぇから」

地面に構うことなく、有彦は腰を下ろす。
潰された枯葉たちの悲鳴が、静かな世界にはよく響く。

「………気持ち悪いな、なんか。こんな風になると」
「…ほう、するとアレか?オマエは殴り合いでもお望みか?」
「よせ、そんな気力もない。というかやるとオマエが死ぬからやめとけ」
「…あぁ、そうだな。あのとんでもない美人は全員オマエの味方だもんな、この女たらしめ………」

苦々しげな言葉と共に、非難と恨みの込められた視線が向けられる。
俺はそれを無視しつつ、返しの一言をくれてやる。

「オマエだっているだろ?シエル先輩の精霊…セブンじゃなくて、ええと………」
「ななこのことか?冗談。オマエにくれてやりてぇ、つーか代われ」
「はは、まぁ頑張れよ。なっちゃったモノはしょうがないだろ?」

うへぇ、と疲れ切った表情を浮かべる有彦。
だが、こっちが相手にしている人たちからすれば、それはきっと大したことのないレベル。
………でも、それは言わないでおく。


「………遠野」

―――珍しく、真剣な声。

「………なんだ?」
「ひとつだけ、聞かせろ」
「……あぁ」


「今でも、オマエは死ぬのが怖くないか?」
「―――――」


「あれだけの人が、オマエをあんなにも大切に想ってくれている」
「―――あぁ」


「それでも、オマエは死ぬことを恐れないのか?」
「―――――」


鬱蒼とした森を仰いで、息をついて、答える。


「――――――――――怖い、な」
「………」

「でもな、有彦。そんなコト考えるくらいだったら………俺はもっと、アイツらと楽しい時を過ごしたいと思う」
「……………」


そう。
迫る死を見つめて何かを考えるくらいなら。

遠ざかる生にすがりついて、何かを精一杯楽しもう。
………ただ、それだけの話。


「それでいいんじゃないか?近い最期を考えるくらいなら、最期が来るその時まで―――――」
「―――――おい、遠―――」
「さて、俺は行くぞ。待たせるとどうなるか分からないからな、アイツらは」
「―――――」
何か言いたげな有彦を遮って、俺は簡単な礼を口にする。

「今日はありがとうな、有彦。また迷惑をかける時があるかもしれないけど、そんときは頼む」
「はっ、今さらだな。それくらいどうってコトねぇよ」

「そうか。それじゃあ、またどっかでな」
「おう。達者でな、この幸せ者」


違いない。
俺は間違いなく、幸せ者。


たとえ。
生の幕が、近く、降りようとも―――――。


◇  ◇  ◇


月明かりと手探りで屋敷へと引き返していく途中。
俺を待つ人影が、ひとつ。

俺の姿を見ると、嬉しそうに近づいてきて。
何も言わず、そっと手を差し出してくる。

最高の笑顔と共に。

俺は何も言わず、その手をそっと握り締める。
そして歩く。落ち葉の擦れる音だけが耳に届く。



あぁ。
叶うことならば、俺はずっと生きていたい。

それはきっと、俺だけの願いではないのだろう。
自惚れではなく、そう感じる。
自分の居場所というモノをハッキリと、俺は今、感じることができる。


―――けれど、それは届かない願いだから。


だから、日々を楽しもう。
刹那の時をも逃すことなく。


あの現実を繰り返そう。
あの日常を繰り返そう。
あの幸福を繰り返そう。


―――あぁ。


今夜は、本当に。
可笑しなくらい、月が、綺麗だ………―――――。



『志』 了.