夜がやってきた。
ふわりと、眠れる時間。
だけど。
『意 味 な ん て』
「……………なんだか、なぁ」
それは少し、もったいないんじゃないか、と。
確かに、ここはテレビもないし。マンガは申し訳程度しかない上、読み切ったものばかり。
そして憂いの宿題も片付いた今、することはゼロに等しい。
………ただ、それでも、今日はまだ眠ろうという気にならなかった。
「―――しきさーん。いらっしゃいますかぁ?」
「え………琥珀さん?」
「はい。もしお暇でしたら少しお茶でも…なんて思ったんですけど、どうですかぁー?」
ドアの向こうから楽しそうに聞こえてきたのは、琥珀さんの声だった。
そしてその提案は、俺のモヤモヤを実に気持ちよく振り払ってくれた。
「もちろん。今、開けるから待ってて」
ということでドアを開けて客人を招き入れると、紅茶のとてもいい香りが漂ってきた。
………にぱーっと笑顔を浮かべる琥珀さんがやけに可愛く見えたというのは、まぁ、その。
お盆を机に置いてから、琥珀さんは紅茶のカップを俺に手渡してくれる。
そして琥珀さんはベッドに、俺は椅子にゆっくりと腰掛ける。
「どうぞ、志貴さん。なにか甘いモノでもあればと思ったんですけどねー」
「確かに。ちょっと残念だけど、まぁ別にいいんじゃない………ところで琥珀さん?」
「なんですか、志貴さん?」
微笑む琥珀さんの表情に、邪気は少しも見当たらない。
………それなのに、これを聞くのは気が引けるし、失礼だというのは―――十分、承知の上。
だけど、自分の身の安全とそれを天秤にかけたら、どっちが重きかは明白。
「―――これに、変なモノ入れてませんよね?」
「ええっ!?し、志貴さんひどいですっ。私を疑うんですね………うぅ」
ショックです…と呟きながら、着物の裾で顔を隠す。
すんすんと微かに聞こえる声からも、琥珀さんは泣いている―――――。
とまぁ。
以前はコレに騙されることも多々あったけれど。
「もう嘘泣きは通じませんからね。そのタネも翡翠に教えてもらいましたから」
「………ちぇっ。つまんないですねー」
諦めた、というよりつまらなさそうに、琥珀さんは目薬をしまいこむ。
………やれやれ、と呆れたようにため息をついて、俺は紅茶を飲もうとする。
と。
「待って―――じゃあ、それをくださいな」
「は、はい?」
「志貴さんの紅茶ですよ。それを私が飲んだら、無害だって信じてくれますよね?」
「あ、いや………それはそうだけど」
確かに疑ったのは自分。
でも、そこまでして無実を証明しなくても………と思うけれど、琥珀さんの眼差しはいやに強い。
「…わかりました。それなら、お願いします」
「はーい。それじゃ失礼しますね」
疑いを晴らせることがそんなにも嬉しいのか、琥珀さんは喜々とした表情で俺の紅茶を受け取る。
―――こくり、と。
琥珀さんの白いノドが脈動し、嚥下したことを証明する。
「―――この通り。痺れもなければ発情もしてませんよ、どうですかっ!?」
「いや、そんな威張られても………」
というか"発情"なんていう、ちょっとストレートすぎる表現に軽く赤面してしまう。
そのあたりはやっぱり琥珀さんだな、なんて考えながら、琥珀さんからカップを返してもらう。
―――まぁいずれにせよ安全性は証明されたワケだから、のんびりとお茶を楽しむことにしよう。
………そう思って飲もうとすると。
「………」
食い入るような琥珀さんの視線が、とても気になった。
「…なんですか?そんなにじーっと見て」
「あはー。志貴さんが間接キスしてくれないかなーって」
「っ―――し、しないから!」
からかうようなその言葉を全力で否定して、俺はようやく紅茶を飲む。
やっぱり志貴さんは面白くないですねー、なんて楽しそうに言う琥珀さんに、思わずそれを吐きそうになる。
「げほっ………あ、美味しいな。日本茶ばかりじゃなくて、たまにはいいかもしれないな」
「そうでしょう?なんてったってこの琥珀が丹精込めて淹れたんですから、不味いはずがありませんよ」
にぱっ、と悪戯に笑う琥珀さん。
俺はその言葉に、素直に頷いてみせる。
「はは、それは言えてる」
「………うぅ、まさかそんなあっさりと肯定してくれるなんて思ってなかったですよ」
「え、だって事実じゃない?」
「……………志貴さん………ああ、やっぱりいいです」
何故か、顔を赤くしてわたわたする琥珀さん。
珍しいリアクションにちょっと可愛いなと思いつつ、俺はその先を聞き出そうとする。
「何?言いかけて止めるのはずるいんじゃない?」
「………あはっ、どうせ言っても朴念仁さんには解らないですよー」
―――ぐさっ。
「……痛い。それ、散々言われてるから気にしてるんだけどなぁ………」
頬を掻きながら苦笑すると、琥珀さんは無邪気に追い討ちをかけてくる。
「ふふ、せいぜい気にしてくださいな。どうせ治りっこないですもの」
「………うわぁ」
これが有彦とかだったら、軽くボディに一撃くれてやるんだけども。
―――琥珀さん相手だと、もう怒る気すら失せる。
「あはっ、ごめんなさい。ついついからかっちゃいました」
「………別にいいですけど」
ふてくされたように返すと、それでも明るく笑って。
「だって志貴さんカワイイですもん、つい意地悪したくなっちゃうのが人情ってものですよ」
くすくすと、控えめながらよく耳に届く笑い声。
………何か頬が熱くなってきたのは…この紅茶のせいだ、と自分に言い聞かせる。
「ごほんっ。そ、それより琥珀さん。こんなコトしてる時間あるの?」
「―――大丈夫ですよ?片付けは翡翠ちゃんがやってくれましたし、後は夜の見回りくらいですねぇ」
「………はぁ、意外と余裕あるんだね」
ポロッとそうこぼした一言が、失礼な発言だったことに言ってから気付く。
慌てて謝ると、琥珀さんは笑って許してくれた。
「でも、朝と昼は忙しいんですよ?特に翡翠ちゃんは朝から…ね、志貴さん?」
「―――ぐぅ」
ぐぅの音しか出ないイタイところを、ピンポイントで突かれる。
そんな俺の反応に、やはり、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「―――ところで、志貴さん?」
「え?」
笑い声が、いきなり不思議な声色に切り替わる。
それは珍しく真剣………琥珀の、真剣な、声色。
「…さっき『こんなコト』って言いましたよね?」
「―――あ。えぇ、と………はい、言いました」
けど、それはいわゆる言葉のアヤというヤツだ。
決して今がつまらないだとか、そういうつもりで言ったワケじゃない。
「―――私は今、すごく幸せですよ。こんな風に、ただしゃべっているだけの時間でも」
「―――――ぁ」
にこりと、琥珀のそれは、とても優しい微笑。
――――――――――あぁ。ちゃんと、笑えるように。
「志貴さんは、どうですか?」
「………そうだね、幸せなコトだと思う。こういう時間があるってことは」
それは痛いほどに解る。
平和から遠ざかっていた日常を振り返って………本当にそう、心から、そう思う。
俺が潜り抜けてきた、過去の忌むべき遺物たち。
それをすべて知り尽くした今―――それは、本当に。
◇
「……………う、ん…?」
ふと。
さっきからずっと、顔の熱っぽさが抜けないことに気が付いた。
紅茶の中身はすっかり空だし、飲み干してからもう五分は経つのに。
「どうしました、志貴さん?」
「いや、べつ―――――」
かけられた声に、謀られたと悟った。
そこに居たのは、着物姿の小悪魔―――悪戯で、無邪気な、微笑。
でも、それはおかしい。
だって、琥珀さんも俺の紅茶を飲んだんだから。
なのに、目の前でくすくすと笑む小悪魔に、そんな様子はどこにも見当たらない。
どうして、俺だけが………?
「ふっふっふ。何も中身にしか細工できないワケじゃありませんよ?志貴さん」
「ぁ………―――カップに、やったんだな…?」
妖しく光る目の言葉に、一瞬で答えを導き出す。
なんてことはない、トリック。
あらかじめ、カップにポイントを定めておく。
そしてそこを避けるようにして、クスリをカップに塗り付ける。
自分自身での証明実験には、無害のポイントに口を付ければいいだけ。
……………間接キスどうこうの話も、それ絡みの、罠。
「………琥珀さん。こんなコトばっかりやってると…いつか、信用無くすよ……?」
「あはっ。元々信用してなかったんじゃないですか、志貴さん?」
「………ゔ」
反論できないところを指摘され、ぐっと声を詰まらせる。
そうこうしているうちに―――意識が、徐々に、漂う。
………けれど手足は動く、これは決してイヤな感覚ではない。
「…痺れ薬の上、人体実験っていうのもアリだったんですけどねぇ」
「え………違うの?」
「はい。手足、ちゃんと動きますよね?」
その意外な言葉に、試しに―――右手を、ぐっと、動かしてみる。
「……あ…うん。まぁ、いちおう」
左手も、両足も、同じように動かしてみると、ちゃんと命令を聞いてくれた。
でも、じゃあ。
これはいったいなんのクスリなのか、と………聞きたくないけど聞きたい葛藤が俺を弄ぶ。
そんな俺の心を読むがごとく、琥珀さんは言った。
「志貴さん。どんなクスリかは推して知るべしですよ♪」
「………エ、エグいよ琥珀さん…」
「あはっ。さーて、そろそろステージの開演といきましょーか♪」
俺の悲痛な叫びは、楽しそうなアクマの声にかき消される。
ぱたぱたと足音が遠ざかり、部屋は瞬く間に、夜闇に包まれる。
―――おぼろげな月光に浮かぶのは、白い華。
―――蛹が殻を破り、蝶に成り、そして舞おうと。
「うーん、そーですねぇ。せっかくだし、ちょっと悪ノリしちゃいますか」
「………十分悪ノリしてるんじゃないのかな、もう。だから―――」
―――小悪魔の囁きへの抵抗空しく。俺の唇を這うのは、赤い赤い舌。
「ん―――あはっ。これで私もクスリを飲んだことになりますね」
そう、近すぎる距離で、琥珀は呟く。
「志貴さ………ううん、志貴―――――いっぱい、愛して」
敵わないな、なんて思う。
………いろいろ、言いたいことはあるけれど。
とりあえず、今は胸にしまいこんで。
月が踊り星の舞う夜に、身を預けよう。
この、腕に抱いた―――白色の琥珀と共に。
『意味なんて』了.